村田経芳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑬)
谷中霊園に眠る幕末有名人の13回目は村田経芳のお墓です。
御存知の方は少ないかもしれませんが、今日は村田経芳について書いていきます。
村田経芳は、幕末から明治に活躍した薩摩藩出身の軍人で、日本陸軍が初めて採用した国産銃「村田銃」を発明しました。
村田経芳のお墓は、霊園管理事務所の向かい側の通りを東にみ、通りの南側の乙7号1側にあります。下写真の左側に村田経芳は眠っています。

薩摩藩士村田蘭斎の長男として生まれました。
村田経芳は、若い頃から小銃の研究に取り組んでいて、安政5年(1858)に藩主島津斉彬のシャープ施条銃の模造に携わりました。
戊辰戦争には小隊長として出征し,鳥羽伏見から東北各地に転戦し、長岡城の攻防戦にも参戦しています。
そして、明治4年、陸軍に入り大尉となりました。
明治維新後の陸軍には、外国から輸入した多種多様な銃が配備されており、これらの補給や訓練に困難が生じていました。
そのため、陸軍は、こうした状況を打開するため小銃の統一と国産化を目指しました。
そこで、戊辰戦争勃発前から小銃研究をしていた経験と豊富な知識、さらに村田経芳は抜群の射撃明神でしたので、その射撃の腕前を見込まれ、小銃の研究に従事しました。
明治政府は、明治8年に、村田経芳に、射撃技術と兵器研究のためのヨーロッパ派遣を命じました。
村田経芳は、約10ヶ月後留学を終えて明治11年11月帰国しました。
その時には西南戦争が勃発しており、村田経芳も西南戦争に従軍しました。
こうした西南戦争への従軍の経験とヨーロッパで学んだ知識を活かし手研究を重ね、ついに、明治13年、村田経芳は、フランス製シャスポー銃に改良を加え「村田銃」を発明しました。
村田経芳はその後も銃の改良を重ね、明治18年式が開発され、このモデルから「村田銃」と命名されました。
その後、連発式の明治22年式を開発し、一連の村田銃は、陸軍に配備され日清戦争での主力小銃となりました。
村田経芳は29年陸軍中将となり男爵を授けられ、大正10年83歳でなくなりなしまた。
なお、射撃の名手であった村田経芳は、ヨーロッパに渡った際にもヨーロッパ各地の射的競技に出場して優勝したといわれています。

