調所広郷(大河ドラマ「西郷どん」③)
「西郷どん」の第2回は、もう西郷隆盛役が鈴木亮平さんになっています。
早い展開でいいですね。というより、西郷さんの小さいころのエピソードがあまりなかったのではないでしょうか。
さて、第2回「立派なお侍」では、薩摩の百姓が大変貧しいということが描かれていましたが、貧しかったのは百姓だけではありませんでした。武士も貧しく、薩摩藩自体も大変貧しい藩でした。
その薩摩藩を救ったのが、竜雷太さんが演じていた調所広郷です。
そこで、今日は、調所広郷について書いていきます。
調所広郷について書いた本の中で、お勧めは小説『調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚』(佐藤雅美著)です。
その『調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚』も参考にしていると思われる名著が中公新書『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』(原口虎雄著)です。
調所広郷について初めて正当に評価した本とされています。
これらの本を参考に、調所広郷について書いていきます。
調所広郷は、ともかく「500万両を踏み倒した人物」として有名です。
しかし、幕末の回天を実現できたのは、調所広郷が天保の改革で、薩摩藩の財政改革と成功させたからだと言われています。
それほど、功績のある調所広郷ですが、島津斉彬の藩主就任を抵抗した人物として、あまり評判は良くないようです。
調所広郷は、鹿児島城下の下級武士川崎家の次男として生まれました。
のち調所清悦の養子となりました。寛政10年(1798)に江戸で藩主島津斉宣の奥茶道方となり、隠居した前藩主重豪(しげひで)の側に仕える茶坊主となり笑悦と名乗りました。
のちに茶道頭となったのち、小納戸勤めとなり、蓄髪して笑左衛門と改名しました。
調所広郷は、前藩主島津重豪付きの茶坊主として重豪にお気に入られ、出世していき御側用人(おそばようにん)となりました。
薩摩藩では島津重豪の蘭癖や、重豪の娘茂姫が11代将軍の正室となっていたことなどからとかく物入りで、文化4年(1807)に126万両であった借金は、どんどん増加していきました。
そして、文政10年(1827)調所広郷は、島津重豪から財政改革を託されましたが、その時の薩摩藩の借金は500万両の巨額に達していました。
その対策として、奄美大島、徳之島、喜界島三島の砂糖専売政策をとり、三島砂糖の自由な売買を厳禁し、生産された砂糖をすべて薩摩藩が買い上げ、違反した者は死刑などの極刑が課せられました。
買い上げ代金は金銭でなく現物で交換され、黒糖についても島民の日用品と交換する仕組みで、それを大坂市場価格の4分の1ぐらいで引き取った。
さらに、琉球を通して清との貿易を幕府に許してもらうほか、蝦夷地産の昆布などの密貿易を行うなどして、利益をあげていきました。
さらに、調所広郷は、贋金づくりにまで手を染めています。
こうした政策をとって収入を安定させたうえで、天保6年(1835)大坂・京都の銀主に対しては藩の借金500万両を25年で返済するという実質借金踏み倒しを言い渡し、債務整理を強行しました。
調所広郷といえば、この500万両の借金の踏み倒しが有名ですが、一度借金を踏み倒せば、次のお金に困った時には絶対借金ができなくなるので、安易に借金踏み倒しができるわけではありません。
ですから、調所広郷が財政改革を任せられて、すぐに借金踏み倒しを実行したわけではなく、周到な準備をしたあとで、断行したことに留意しておく必要があるように思います。
この借金踏み倒しで、大坂の両替商たちから大坂の町奉行に訴訟が起こされていますが、調所広郷自身は、処罰されることはありませんでした。
こうしてみごとに財政改革に成功し、天保末期には藩庫に備蓄された金50万両のほか、貧窮の際にはまったく手が付けられなかった藩邸などの修理や営繕を行ない、その費用は200万両余に達したといいます。
こうした財政改革の功により家老となり、島津斉興を助けました。しかし、嫡男島津斉彬とは意見があいませんでした。
今後、「西郷どん」でも、史実通り、島津斉彬とは対立を深めていく展開になるものと思います。