お由羅騒動(大河ドラマ「西郷どん」⑤)
『西郷どん』第3回「子供は国の宝」では、調所広郷が服毒自殺しました。
「お由羅騒動」の始まりです。
お由羅騒動は、幕末の薩摩藩で起きたお家騒動で、嘉永朋党(かえいほうとう)事件、近藤崩れ、高崎崩れともいわれています。
今日は人物叢書『島津斉彬』(芳即正著)を参考に、お由羅騒動について書いていきます。
藩財政立て直しのため抜擢された調所広郷によって、薩摩藩の財政改革が成功しました。
しかし、曽祖父重豪に似て蘭学に強い関心をもち、洋式軍制を取り入れようとする斉彬が藩主に就任すると、藩財政が悪化すると危惧した斉彬の父島津斉興と調所広郷は、斉彬の藩主就任に消極的でした。
そうした中で、斉彬の藩主就任を望んでいた老中阿部正弘が、琉球に駐留している薩摩藩兵の数に嘘があることを知り、さらに薩摩藩が密貿易を行っていることも探知し、それを根拠に島津斉興の引退を求めました。
そこで、調所広郷は、島津斉興に累が及ばないようにするため、調所広郷は密貿易の責任を取り服毒自殺しました。これは『西郷どん』に描かれていました。
それに続き、薩摩藩内の調所派も処分も行われました。
こうしたことについて、人物叢書『島津斉彬』には「島津斉彬は、側近への手紙で、万事が斉彬らの計画通りに進んだと書く。(中略)斉彬の念願した調所追放はこうして幕府権力の介入という形で実現したが、それはあきらかに斉興隠居をみすえた動きで、当然斉彬の藩主就任とむすびつく。すなわち斉彬は琉球外交問題をきっかけとして斉興隠居工作を積極的に展開し、第一関門を突破したのである。」と書いてあります。
嘉永元年(1848)に斉彬の次男寛之助、そして嘉永2年(1849)三男篤之助と斉彬の子が相次ぎ没しました。
これは、島津斉興の側室お由羅が呪詛調伏(じゅそちょうぶく)したものだという噂が広がりました。
呪詛調伏したとされる側室お由羅は、船宿または大工の娘で江戸生まれと言われています。20歳ごろに側室となり、久光以下3人の子供を産んでいます。斉興の正室周子(斉彬の母)が亡くなった後は、正室同様にふるまっていました。
そのお由羅が呪詛調伏しているという噂に斉彬派の家臣は怒りました。
島津斉彬自身にもお由羅が呪詛調伏しているという情報が伝えられていて、お由羅を闇討ちにでもしたらよかろうと思うほどだと家臣への密書に書いているそうです。
こうした状況の中で、島津斉興によって、嘉永2年、町奉行近藤隆佐衛門、船奉行高崎五郎右衛門、鉄砲奉行山田清安らが切腹させられました。
翌年には3人の遺体が掘り返されて磔刑、鋸刑(鋸びきの刑)にされるなど徹底した処罰が行われました。
この騒動で処罰されたのは、切腹13名、病死1名、自殺1名、遠島17名、その他の処罰をあわせて総計約50名にもなりました。
切腹したものの中には、西郷隆盛・大久保利通の先生であった赤山靱負がいます。
また、大久保利通の父大久保治右衛門も遠島処分となり、大久保利通自身も免職となっています。これらは、次回の『西郷どん』で描かれることになるのだと思います。
お由羅騒動は、側室お由羅が、自分の子供の久光を藩主としようとしたために起きたお家騒動で、お由羅が張本人で悪女のように伝わっていて、私もそうだろうと思っていました。
しかし、『島津斉彬』(芳即正著)を読むと、島津斉彬は「幕末の名君」と評価されていて、西郷隆盛などは神格化しているため、伝記類もあまりなかったそうです。しかも、お由羅騒動に関して残された資料も斉彬派のものばかりだそうです。
こうしたことを知ると、お由羅騒動は、久光を担ぐお由羅と斉彬の戦いではなく、長く藩主に留まりたいと思っている父斉興と早く藩主になりたい斉彬との戦いだったとも思いますし、斉彬派によって、お由羅は実像以上に悪女にされている面もあるかもしれないと感じました。
人物叢書『島津斉彬』で、芳即正先生は、
これまで斉彬が山口(斉彬の家臣)らに出して密書をよむと、藩士層を刺激し扇動したとも思える面があったことは事実である。その点斉彬の事件発生に対する責任は避けることはできないといえよう。むしろはやくから調所政権の破滅をはかり、それに連動して斉興引退をもくろんでいたのは斉彬だと考えられることから、この事件の仕掛人は斉彬だといっても言い過ぎではない。
と斉彬に手厳しく書いています。