旧古河庭園と戸川播磨守
『蘭学事始』のことを書くため、いろいろな本を読みましたが、その中に菊地寛の短編小説『蘭学事始』があります。
これは、菊地寛大の歴史短編小説を集めた『恩讐の彼方に・忠直卿行状記』と題する岩波文庫に収められています。
それは14代将軍徳川家茂と家茂の習字の先生戸川播磨守のエピソードのお話です。
ストーリーは後で書きます。
『名君』の話の前に、まず、旧古河庭園のお話をします。
旧古河庭園は、ジョサイア・コンドルの設計の洋館とバラの咲く洋風庭園で大変有名です。
毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で昨年秋にも案内しました。
旧古河庭園は、名前の通り、戦前に古河家の屋敷があった跡地に造られた庭園です。
旧古河庭園は、もともとは明治の政治家陸奥宗光の別邸があったところです。
陸奥宗光の次男潤吉が古河財閥の創業者である古河市兵衛の養子となったことから古河家の所有となりました。
古河潤吉は、明治36年に市兵衛が亡くなった後、古河家の2代目当主となり、それまでの個人事業経営を会社組織に改め、古河鉱業会社を設立し、その社長に就任したが、その年の暮れに急逝しました。ちなみに潤吉が社長に就任したとき、副社長を務めたのが、後に首相になる原敬です。
古河潤吉の死後、跡を継いで3代目当主となったのは市兵衛が晩年にもうけた実子虎之助で、この虎之助により、旧古河庭園は、1万坪あまりに拡張されるとともに、現在まで残る洋館と庭園が造られました。
この旧古河庭園のある場所を、切絵図でみると「戸川播磨守」となっています。
つまり、旧古河庭園は、戸川播磨守の屋敷跡にあります。
この戸川播磨守の事績を昨秋調べてみましたが、あまりエピソードらしきものがありませんでした。
しかし、実はおもしろいエピソードがあり、それが、冒頭書いた菊地寛の短編小説『名君』に書いてありました。
そのストーリーは次のようなものです。
戸川播磨守は、14代将軍家茂の習字の先生を勤めていました。
しかし、手習をしていた家茂は、あまり熱心に習字の練習をしませんでした。
そこで、ある日のこと、ついに戸川播磨守は、家茂の手をぎゅっと握りしめて字をしっかり書かせました。
字を書き終えた時、家茂は、突然、墨をするために机上においてあった水入れの水を戸川播磨守にあびせて、部屋を出て行ってしまいました。
側にいた御側衆が驚いて、戸川播磨守に近づき、「あまりの御乱行だ」と気の毒そうに慰めました。
ところが、水を浴びせられた戸川播磨守は怒るでもなく、気落ちするでもなく、涙を流していたのでした。
実は、73歳となった戸川播磨守は小用をもようしたものの我慢して御側に仕えていましたが、家茂の手を握りしめた瞬間、少々漏らしてしまいました。
このことがわかると、戸川播磨守は謹慎閉門どころか切腹もあろうかと心配していたところ、家茂がとっさに水を頭からかけて、失禁がわからないようにしてくれたのでした。
このことを戸川摂津守は涙を流しながら語ったのでした。それを聞いて近習たちは、家茂の仁慈に感嘆の声をあげ、その逸話は、江戸城の隅から隅まで伝えられ、名君家茂を讃えないものはいなかった。
菊地寛が、何を題材に、この『名君』を書いたかわかりませんが、家茂と戸川播磨守のこの逸話は、戸川残花が「幕末小史」の中に記している話だそうです。