川越城の歴史(川越城①)
1月、川越の喜多院に初詣に行ってきました。その際に、川越城を散策してきました。
川越城については、このブログでまとめて書いたことがないので、これから、数回にわけて書いていこうと思います。
川越城は、太田道灌が築城したものとされていることから、川越市役所には、太田道灌の銅像がたっています。大田道灌の後方の建物が川越市役所です。(下写真)
しかし、川越城の築城には、父親の太田道真もかなり関与して築造したという説も有力です。
太田道真・道灌の主君が扇谷上杉持朝(もちとも)でしたが、川越城は、長禄元年(1457)扇谷上杉持朝(もちとも)の命令により築城されたものです。
扇谷上杉持朝は、古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するため、川越城を太田道真・道灌父子に命じて築城しました。
このころ、関東は、古河に陣取り古河公方と呼ばれた足利成氏とこれに対抗する山内上杉家とに分かれて戦っていました。
太田道灌が仕える扇谷上杉家は山内上杉家の一族でした。
この両家は、時には争うこともありましたが、古河公方という共通の敵のため、扇谷上杉家は、山内上杉家に与して戦っていました。
上杉側が、古河公方に対抗するため、この時期に築城したのが、川越、岩槻、江戸の三城です。
この三城は、従来は太田道灌が築城したと言われています。
大田道灌が、扇谷上杉家の上杉定正に暗殺されると、扇谷上杉家の勢力が弱体化していきます。
その一方、小田原の後北条氏の勢力が強くなり、やがて川越城は、後北条氏の占拠するところとなりました。
それに対して、天文15年(1546)川越城の奪回を図った上杉氏は後北条氏の奇襲に会い、大敗して上野方面に逃れました。
これが河越夜戦と言われる戦いで、日本三大奇襲戦の一つに数えられているほど有名な戦いです。
この川越夜戦以後、後北条氏が川越城を支配することとなりました。
川越城を掌中に収めた後北条氏は、城代として譜代の重臣大道寺氏を配置しました。
その後北条氏も、豊臣秀吉により攻撃され、天正18年(1590)、川越城は前田利家に攻められて落城しました。
やがて同年8月徳川家康が一族家臣を従えて関東に移った際には、川越には酒井重忠が1万石をもって封じられました。
それ以降、川越城には、譜代の有力大名が配置されました。
その中で、川越城の大幅な拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えるたのは、知恵伊豆とよばれた松平信綱でした。