川越藩松平家のあだ名は「引っ越し大名」(川越城④)
川越城本丸御殿を造営したのは川越藩主松平斉典(なりつね)でした。
松平斉典(なりつね)は、松平大和守家といわれる越前松平家の分家の8代目になります。
松平大和守家は、徳川家康の次男である結城秀康の五男の松平直基を初代とする「御家門」と言われる高い家柄ですが、この松平大和守家は、非常に転封が多い大名であったため、「引っ越し大名」というありがたくないニックネームがありました。
今日は、この「引っ越し大名」のお話です。
松平大和守家の初代直基は、越前勝山藩3万石⇒大野藩5万石⇒出羽山形藩15万石⇒播磨姫路藩主15万石と転封しています。
さらに、2代目直矩(なおのり)は、姫路藩15万石⇒越後村上藩15万石⇒播磨姫路藩15万石⇒豊後日田藩7万石⇒出羽山形藩10万石⇒陸奥白河藩15万石へ移され、一代で5回の転封を命じられています。(実は、直矩は藩主に就任する前に2回転封を経験しているので、生涯では7回転封しているのです。)
このように、非常に多くの引っ越しを経験させられているため、「引っ越し大名」と呼ばれました。
2代松平直矩が藩主であった時の松平大和守家の転封の苦労を描いた小説が土橋章宏さんの『引っ越し大名 三千里』です。
主人公は書庫係でありながら「引っ越し奉行」を押し付けられた片桐春之助で、この片桐春之助が、引っ越し作業に奮闘する姿をコミカルかつホロッとさせながら描いた小説ですが、大名の引っ越しの苦労がよくわかります。

松平大和守家は、その後、奥羽白河藩から播磨姫路藩に復帰しますが、さらに上野前橋藩に転封となり、そして、明和4年(1767)に川越に入封したのでした。
このように、転封を繰り返した松平大和守家は、転封のたびに多額の費用が必要なため、当然のことながら財政的には危機に瀕します。
松平斉典(なりつね)にとっても財政再建は重要な課題でした。
財政再建のために諸施策に取り組む中で、御家門ならではの施策を講じました。
それが子だくさんであった11代将軍の子供を養子に迎えることでした。
川越藩の働きかけが功を奏して、家斉の25男紀五郎(松平斉省)の養子が決まりました。
そして、これに合わせて、旧領姫路への帰藩もお願いしましたが、これは聞き届けられませんでした。しかし、2万5千石の加増となりました。
松平斉典(なりつね)は、姫路藩への転封がダメになったので、さらに、他領への転封を願い出ました。
この川越藩の願いを受けて、天保11年(1840)に発令されたのが、川越藩松平家を庄内へ、庄内藩酒井家を長岡へ、長岡藩牧野家を川越へ転封する三方領知替えです。
しかし、この三方領知替えについては、庄内藩の農民が強く反対し、庄内地方だけでなく、江戸でも駕籠訴などを展開したため、三方領知替は、中止となっています。
そのため、松平大和守家は、庄内藩への転封が中止となったかわりに、2万石の加増が認められています。

