篤姫の輿入れ(大河ドラマ『西郷どん』⑬)
『西郷どん』第10回は「篤姫はどこへ」では、篤姫の輿入れ先が将軍家であることが島津斉彬から伝えられ、それから篤姫の特訓が始まりました。
そこで、今日は、篤姫の輿入れについて書いてみます。
篤姫(のちの天璋院)と13代将軍家定との縁組は、将軍継嗣問題で一橋慶喜を擁立しようと考えていた阿部正弘・島津斉彬や松平春嶽が考えたとされています。
当時、大奥は水戸の御隠居徳川斉昭を毛嫌いしていました、そのため、徳川斉昭の子供である一橋慶喜が将軍になることに強く反発して、一橋慶喜より紀州藩主徳川慶福を将軍になって欲しいという意見が主流でした・
そこで、篤姫を徳川家へ輿入れさせて、大奥内から働きかけて、一橋慶喜が将軍になれるようにしようと考えたとされていました。
島津家の修史事業に従事し、当時の事情を知っている元薩摩藩士市来四郎は
阿部正弘は、家定は病弱で大事なことは判断できないので、次期将軍は一橋慶喜になってもらおうと考えたが、これは表から申し上げることは難しいので、島津斉彬と相談して御台所から徐々に勧めてもらったほうがよいということになった
と篤姫輿入れの事情を述べています。
従来、私も、篤姫輿入れの経緯は、上記のようだと思っていました。
しかし、『島津斉彬』(芳即正著)では、「将軍家継嗣問題と篤姫縁組は本来無関係」というタイトルで事情を解説しています。
それによると、次のようです。
家定の正室は、最初鷹司家から輿入れしたが亡くなり、次いで一条家から輿入れした継室も亡くなってしまいました。これにこりた家定の実母本寿院が島津家から夫人を迎え入れたいと考え島津家に申し込みました。
島津家を候補先としたのは、55人もの子女をもうけた11代将軍家斉の正室広大院が島津家出身だったからです。
この時期は、島津斉彬が、藩主になる直前の嘉永3年の秋のことです。
藩主になった島津斉彬は、島津家に適当な候補者がいないことから、大奥からの縁談申し込みを受けた苦慮したようです。
しかし、島津斉興の従三位昇進を促進させるために役立つだろうと考え、島津忠剛の娘於一(おかつ)を島津斉彬の実子と届け出て縁組を進めました。
そして、安政3年12月18日に無事婚礼が終わり、将軍岳父となった島津斉彬は大廊下下の間詰を命じられました。
ちょうど、その頃、将軍継嗣問題が起こり、島津斉彬は、篤姫の結婚を、将軍継嗣問題に利用しようと考え始めました。
芳即正先生は、「(将軍継嗣問題と篤姫の縁組は)紛れもなく単なる偶然の結果である」と本の中で、断言しています。
私はなるほどなぁと思いました。読者の皆様はどう考えられますでしょうか?

