高島秋帆のお墓(白山ミニ散歩④)
大円寺には、高島流砲術を創始した幕末の砲術家高島秋帆のお墓があります。
そこで今日は高島秋帆について書きます。
大円寺本堂脇から、一旦境内を出て、細い道を挟んだ先にある大円寺墓地の最奥部に高島秋帆一族のお墓があります。
その中央が高島秋帆のお墓です。
お墓の表面は痛みが激しく戒名は読み取ることができませんでした。
高島秋帆の秋帆は号で、諱を茂敦、通称は四郎太夫といいました。
高島家は、代々長崎の町年寄を勤めていた家柄でした。
高島秋帆は、父四郎兵衛茂紀から砲術荻野流を学び砲術の基礎知識はありました。
その上で、長崎という土地柄を利用し、通詞にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり、オランダ人に質問するなどして西洋の軍事技術に関する知識を修得しました。
また町年寄の特権である脇荷貿易によって各種の火器やオランダ兵学書を買い求めました。
そして、天保5年(1834)ごろに、これらの成果を基に高島流砲術を考案しました。
アヘン戦争で清がイギリスに敗れたとの情報に大きな衝撃を受けた高島秋帆は、天保11年(1840)、西欧列強のアジア侵略から日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだとする意見書を江戸幕府に提出しました。
これを受けた老中水野忠邦は、高島秋帆を江戸によび、天保12年(1841)5月に、徳丸ケ原(東京都板橋区)で日本最初の洋式砲術演習を行いました。
この縁で、徳丸ケ原が、高島平と呼ばれるようになりました。
この演習により幕府は高島流砲術を採用することとして、江川太郎左衛門と下曾根金三郎の二人に高島流砲術を教授するよう命じました。
高島秋帆は、二人に高島砲術を伝授して長崎に帰りました。
しかし、蘭学を嫌っていた江戸の町奉行鳥居耀蔵の陰謀によって逮捕・投獄されました。
高島秋帆は長崎在住ですので、実際に逮捕したのは長崎奉行伊沢政義でした。
逮捕された高島秋帆は、江戸に送られ、小伝馬町牢屋敷に入牢させられます。
そして、弘化3年(1846年)に中追放に処せられ岡部藩預かりとなりました。
その後ペリーが来航し、日本を巡る外国の動きが激しくなる中で、江川太郎左衛門の働きかけなどもあり、嘉永6年(1853)に赦免となり、江川太郎左衛門が引き取ることになりました。この時、赦免の喜びから通称を喜平と改めました。
安政2年(1855)には普請役に任ぜられ、鉄砲方手付教授方頭取を命じられ、安政4年には富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め、慶応2年正月14日、現職のまま亡くなりました。69歳でした.
