京都堀川沿いの史跡めぐり(30年京都冬の旅①)
先週末から昨日まで所用があり、4日間京都に行ってきました。
基本的には、用事を済ませるのがメインですが、空き時間を利用して、各所を見てきました。
今回は、特にテーマを決めずに、空き時間を利用して回りましたので、アットランダムな拝観になりましたが、それでも、いろいろな情報を入手でき、貴重な旅となりました。
今日は、まず、初日に回ったホテル近くの堀川沿いの史跡を取り急ぎご紹介します。
中立売橋
中立売橋は、中立売通りが堀川を渡る際の橋で正式名称は堀川第一橋といいます。
後水尾天皇が二条城に行幸する際に架けられた橋で、江戸時代を通じて京都御所と二条城を結ぶ重要な橋で、幕府が直轄で管理していました。
現在の橋は、明治6年に京都府によって架け直された現役最古の石造橋で、真円のアーチ橋は全国的にも珍しいものだそうです。

一条戻橋
一条戻橋は、一条通の堀川に架かる橋です。戻橋という名前は、平安時代の延喜18年(918)、文章(もんじょう)博士・三善清行(きよつら)が亡くなった時、父の死を聞いた熊野の僧「浄蔵」が紀州熊野から帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っており、浄蔵は柩にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠を込めて祈願したところ、三善清行が一時蘇生して父子物語を交したという伝説から名付けられたと言われています。
また、「太平記」剣の巻では、源頼光の四天王の1人であった渡辺綱(わたなべのつな)が深夜この橋の東詰で容貌美しい女性から「夜更けが怖いから送って欲しい」と頼まれ、、馬に乗せたら女はたちまち鬼と化し、渡辺綱がその腕を切り落としたという伝説が架かれているそうです。
また、伝説では、平安時代の天才陰陽師として名高い安倍晴明の父である保名が殺害された場所であり、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。
いろいろな伝説で彩られて一条戻橋ですが、現在の橋は平成7年に新築されたものです。橋の袂には桜の花が咲き始めていました。

晴明神社
晴明神社は、最近、非常に人気のある安倍晴明をお祀りする神社です。
創建は、寛弘4(1007)年、安倍晴明の偉業を讃えた一条天皇の命により、安倍晴明の屋敷跡である現在の場所に創建されました
安倍晴明は、天文陰陽博士として、朱雀天皇から、村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇の側近として仕え、寛弘2年(1005)、85歳でなくなっています。
遅い時間でしたが、大勢の参拝客でにぎわっていました。

西陣織会館
上京区の一条通りもしくは中立売通りより北から、堀川から西の地域が、西陣と呼ばれ、西陣織の産地です。
堀川通り沿いにある西陣織会館は、西陣織をPR するために昭和51年に建てられました。
2階にある売店で西陣織の商品を販売しているだけでなく、華やかな『きものショー』も毎日3回開催されています。さらに3階では史料室があり、現在は「西陣 近代化の偉業」という展示会が開催れていました。

西陣織会館の入口には西陣の由来を書いた石碑があります。(下写真)
西陣という名前は、応仁の乱の際に、東軍細川勝元に対して西軍山名宗全方の陣があったことに由来し、東は堀川通,西は七本松通,北は今宮神社御旅所,南は一条通または中立売通で囲む一帯を西陣と呼んでいると刻まれています。

鶴屋吉信と高師直邸跡
堀川今出川の交差点の北西角に和菓子の老舗「鶴屋吉信」の本店があります。
鶴屋吉信」は、享和3年(1803)に創業された銘菓「京観世」で有名な和菓子の老舗です。下写真が鶴屋吉信全景です。

その鶴屋吉信の本店がある場所は古くから舟橋と呼ばれていました。
ここに足利尊氏の執事であった高師直の邸宅があり、泉殿の下に流れる堀川に舟橋を浮かべていたことに由来するという伝承があります。
その跡地を示す石標が、鶴屋吉信の店舗の前に建てられています。下写真手前の石標がそれです。なお、舟橋とは,舟を何艘か並べて橋にしたものです。

山名宗全邸跡
堀川今出川の交差点を北に歩くと西側マンションの南端に「山名宗全邸趾」の石柱があります。

さらにこの石柱から西に50メートルほど進むと昔ながらの民家が2軒建っており、その間にひっそりと山名宗全の邸宅跡を示す石碑と京都市の案内板が置かれています。

この辺りが、応仁の乱の西軍の大将だった山名宗全(持豊)の邸宅跡とされています。
山名宗全は室町時代の守護大名で、8代将軍足利義政が実弟の義視に将軍職を譲ろうすることを支持した細川勝元に対して、義政の正室日野富子が生んだ義尚を将軍後継に推して、この争いが応仁の乱となります。
東側にある花の御所を本陣とした細川勝元に対して、山名宗全は、自分の屋敷を本陣としたので、西軍と呼ばれました。

