同志社大学と薩摩藩邸〔今出川通沿いの神社仏閣史跡③〕(30年京都冬の旅④)
今出川通も烏丸今出川の交差点を過ぎると、北側に同志社大学のキャンパスです。
同志社大学は明治8年に、新島襄が同志社英学校として設立した大学です。
この同志社大学は、江戸時代には、薩摩藩の藩邸でした。
同志社大学の西門前に、薩摩藩の藩邸であったことを示す石標と説明板があります。
同志社大学が建てた二本松藩邸跡の説明板によれば、文久2年(1862)9月、薩摩藩が相国寺から土地を借りて藩邸を造営したもので、同志社大学の今出川キャンパスの約3分の2を占めていました。
敷地の広さ、5,805坪(約1万9千平方メートル)で、9棟の建物と多くの土蔵が立ちならんでいたようです。
この薩摩藩邸で、行われた重要事件が薩長同盟の合意です。
薩長同盟は、慶応2年正月21日に合意しましたが、その話し合いが、二本松の藩邸で行われたのでした。
薩長同盟の合意がどこで行われたかについては、小松帯刀の屋敷で行われたという説もあるようですが、「京都の歴史」では二本松の藩邸で行われたと書いています。
同志社大学の土地は、明治維新の混乱の中で薩摩藩邸跡地を購入した山本覚馬から寄贈された土地です。
山本覚馬は元会津藩士で、幕末には会津藩の公用方として活躍しましたが、眼病を患い、鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩に捕えられ、薩摩藩邸に幽閉されました。
その幽閉中に、「管見」を書き、小松帯刀や西郷隆盛に目に留まり、京都府顧問として登用されます。
また、山本覚馬の妹八重は、兄を探して京都にやってきて、兄の生活を援けます。
そうしている中で、アメリカらから帰国した同志社大学の創始者新島襄と知り合い結婚することになります。
一方、薩摩藩邸は、明治になって京都府に収公され、その藩邸が売却されることとなり、山本覚馬が購入しました。
新島襄のキリスト教学校設立の考えに共鳴した山本覚馬が土地を新島襄に格安で譲ったのでした。
そこに開学されたのが同志社英学校で、その後、大学に昇格し、現在の同志社大学となりました。
同志社大学には、重要文化財に指定されている建物が数多くありますが、二本松藩邸跡の石柱のある西門を入ったところにあるのが「彰栄館」です。
西門を入って「彰栄館」を近くから見ると下写真のようです。
同志社大学の東側には同志社女子大学があります。
この地は、江戸時代は五摂家の一つ二条家の邸宅でした。
同志社女子大学の東門の前に、それを表す石碑が建てられています。
同志社女子大学の前身は明治9年に開塾した同志社女子塾で、明治11年に現在地に移転しました。
同志社女子大学正門を入った正面にある建物が栄光館です。
栄光館は昭和7年に竣工された建物で同志社女子大学のシンボル的な建物です。
通常は講堂として使用されていますが、この竣工まもない栄光館が最初に使用されたのは、山本八重の葬儀だったそうです。
現在では、入学式や卒業式に使用されています。訪ねた日は、同志社女子大学の卒業式が挙行されていて、大変華やかでした。
赤印が同志社大学西門(薩摩藩邸跡の石柱)、
青印が同志社女子大学東門(二条邸跡の石碑) です。