同志社大学の北側に相国寺があります。
同志社大学の正門東の道を北に向かうとすぐに相国寺の総門(下写真)に着きます。
相国寺は、臨済宗相国寺派の大本山で京都五山第二位に列せられる名刹です。正式名称は萬年山相国承天禅寺です。
室町幕府第3代将軍足利義満により夢窓疎石を開山として明徳3年(1392)に花の御所の隣に創建されました。
相国寺は「しょうこくじ」と読みます。
「相」は「そう」と読むほうがなじみがあるかもしれませんが、宰相、首相という熟語もあり、「しょう」と発音します。
「相国」とは中国では宰相を意味しますが、日本では、太政大臣・右大臣・左大臣を意味します。
相国寺を創建した当時、足利義満は左大臣でしたので、創建したお寺が相国寺と名付けられたといいます。
また足利義満の時代は中国では明の時代でしたが、このとき、中国の開封に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺があり、この大相国寺の寺号から「相国寺」と名付けられたそうです。
山門を入ってしばらく歩くと左手に大きな建物が現れます。法堂(はっとう)です。(下写真)
相国寺の法堂は慶長10年(1605)に豊臣秀頼により再建された物で日本最古の法堂です。
相国寺の現在の境内は約4万坪もの面積があり12の塔頭寺院があります。有名な金閣寺、銀閣寺も相国寺の塔頭です。
その多くの塔頭のうち、「第52回京の冬の旅」非公開文化財特別公開で、相国寺では、法堂・大方丈、さらに塔頭の豊光寺と林光院が公開されていました。そのうち、林光院だけを拝観してきました。
林光院は、足利3代将軍義満の第二子で、4代将軍義持の弟義嗣が25歳で亡くなったため、その菩提を弔うため、夢窓国師を開山として創建されました。
寺号は、義嗣の法号「林光院殿亜相考山大居士」から名付けられています。
当初は、二条西ノ京の紀貫之の屋敷跡に創建されましたが、その後、移転を繰り返した後、豊臣秀吉により相国寺山内に移されました。
林光院は、薩摩藩と縁の深いお寺です。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのとき、島津義弘が東軍の中央を突破し伊賀に逃れました。この時、大阪の豪商田辺屋今井道與(どうよ)が潜伏先から救出し、堺港より海路によって無事薩摩に帰国することができました。
この功により、今井道與(どうよ)は、薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許されました。これが現在の田辺製薬の始まりだそうです。
後に今井道與の孫乾崖梵竺が林光院の五世住職となり、義弘の像と位牌が林光院に安置されることになり、それ以降、薩摩藩との関係ができました。
こうしたことから、相国寺東門脇の林光院墓所には、禁門の変や鳥羽伏見の戦いで亡くなった薩摩藩士の墓があります。
林光院の本堂は、現在の滋賀県蒲生郡日野町にあった仁正寺(にしょうじ)藩市橋家の藩邸(安政年間建立)を買い取り移築したものです。
庭園・屋内ともに写真禁止であったため、下写真は山門外から撮影した本堂玄関です。
林光院は明治になると非常に荒廃し、明治7年(1874)ついに廃院となってしまったそうですが、大正8年の相国寺派管長・橋本獨山により再興され、その際に購入したものだそうです。
この本堂の襖には、4年の歳月をかけて藤井湧泉が書きあげた襖絵が描かれています。
下の絵は「虎図」で、「第52回京の冬の旅」のパンフレットの表紙を飾ったものですが、どうも猫に似ていて仕方がありません。
なお、庭園に「鶯宿梅」と名付けられた有名な梅の木があり、まさに満開でしたが、残念ながら、写真撮影禁止でしたので、撮影できませんでした。