家定と本寿院(大河ドラマ『西郷どん』⑯)
『西郷どん』第12回「運の強き姫君」では、篤姫の輿入れがようやく本決まりとなりました。
病弱な家定に輿入れすることが必ずしも幸福なことではないことを知っても毅然とし態度をとる篤姫、しかし、やはり悲しく思っていることが大地震の西郷とのやりとりで表現され、しかも、それを見せたのは一瞬で、すぐに立ち直るという描き方、今回の篤姫の描き方は非常に素晴らしかったと思います。
篤姫が輿入れする徳川家定は、12代将軍徳川家慶の第九子として生まれました。
徳川家慶は、27人の子沢山でしたが、30歳まで成長したのは、徳川家定だけでした。
家定は、幼名は政之助、後に家祥(いえさち)と名のりました。しかし、歴代将軍のうち扁のつく名前の将軍は、家綱・家継ですが、この二人の将軍には世嗣ができませんでしたので、縁起をかついで家祥から扁のない「定」を使用した家定と改名しました。
しかし、家定には世嗣が授かりませんでした。
家定は、子供だけでなく御台所にも恵まれませんでした。
家定は正室として鷹司政煕の娘任子(ただこ)を迎えましたが、疱瘡にかかり25歳でなくなりました。
次いで嘉永2年(1849)に迎えた一条忠良の娘秀子も、翌年26歳で亡くなってしまいました。
このように続けて御台所がなくなっていることから、『西郷どん』で、本寿院や家定が「健康で長生きできる人を!」という言葉になっています。
家定の母、本寿院は、徳川家慶の側室で、家慶が存命中は、お美津の方と呼ばれていました。
本寿院は、家慶が亡くなり剃髪した後の院号です。
本寿院は、家定がなくなった後も、慶応4年の江戸城開城の際に一橋邸に移るまで、江戸城に住んでいました。
さて、後半では、安政の江戸地震も大きな事件として取り上げられていました。
安政年間(1854~1860)には,大きな地震が連続して起こりました。
安政元年(1854)11月4日の東海地震,翌5日の南海地震,そして、『西郷どん』で描かれた安政2年(1855)10月2日の江戸地震です。
安政の大地震とも呼ばれる安政の江戸地震は、安政2年10月2日午後10時頃,江戸を中心として起こった激震です。
安政年間に各地に頻発した地震のなかで最大の被害が江戸でおきました。
震源は東京湾北部,地震の規模はマグニチュード6.9~7.1と推定されている直下型地震です。
江戸は、下町を中心に甚大な被害を受け、死者は1万人以上と推定されています。
最も被害の大きかったのが、新吉原でした。地震が起きた時間が夜10時ですので、吉原では営業の真っ最中でした。この時間帯に地震とそれに伴う火災が発生し、多くの遊女とお客が亡くなりました。
将軍徳川家定は地震の時、 江戸城の吹上に避難して無事でしたが、西郷隆盛が訪ねたことのある水戸藩の藤田東湖が,このときに圧死しています。
これは、『西郷どん』でも紹介されていました。
高輪の薩摩藩邸は、建物などに甚大な被害を受けたため、篤姫は、渋谷の下屋敷に引っ越ししました。
翌年、篤姫は、渋谷の下屋敷から江戸城に輿入れしますが、渋谷の下屋敷から輿入れしたのは、こうした事情があります。

