成就院と月照上人〔『西郷どん』ゆかりの寺①〕 (30年京都冬の旅⑦)
第52回の「京の冬の旅」非公開文化財特別公開は、大河ドラマ『西郷どん』に併せて、西郷隆盛ゆかりの寺が特別公開されていました。
先日ご紹介した相国寺林光院もそうですが、そのほか、清水寺の成就院、伏見の大黒寺などです。
その中で、清水寺の成就院と伏見の大黒寺はぜひ訪ねてみたいと思っていたお寺です。
そこで、京都での用事の合間をぬって、訪ねてきました。
今日は、清水寺の成就院をご紹介します。
成就院は、清水寺の塔頭で、本堂の北側にあります。
「清水の舞台」の喧騒とは別世界の静寂の中にあります。
下写真は、成就院の玄関先から写した写真です。

成就院は、応仁の乱の後、焼け落ちた清水寺を復興した「願阿上人(がんあしょうにん)」により創建された寺院です。
最近では、清水寺の中興の祖とされる大西良慶師も住職を務めていた寺院です。
この成就院で大変有名なものが、「月の庭」と呼ばれる庭園です。
この庭園は、室町時代の相阿弥の作で小堀遠州によって補修されたとか、俳人松永貞徳の作などと伝わりますが詳細は分かっていません。
庭園や建物はすべて撮影禁止でした。下写真は、境内に建てられていた案内板のなかの写真です。この写真でご想像ください。

音羽山の斜面と隣の高台寺の敷地となっている山を巧みに利用した借景庭園となっています。
わずか48坪(確か!)のあまり大きくない庭園ですが、借景を利用して、庭園内の灯籠と高台寺敷地内の灯籠で遠近感を出していたり、刈込の大きさを変えたりしており、実際の広さ以上に雄大に見えます。
庭には、豊臣秀吉お手植えの侘助椿や豊臣秀吉の寄進と言われる「誰が袖手水鉢」などもあり、見飽きない庭園です。
「月の庭」と呼ばれるのは、庭園の池に月がうつり、それが月の移動に伴い、東から西に移動していく見事さや月の光に照らし出される庭の見事さから、名付けられた名前だそうです。
この成就院が、『西郷どん』ゆかりの寺であるのは、西郷隆盛の盟友であった月照上人が住職を務めていたことによります。
そのため、室内には、西郷隆盛や月照上人ゆかりの品が展示されていましたが、撮影禁止であるため、お見せできないのが残念です。
月照上人は讃岐国多度郡に生まれ、10 歳の時、叔父蔵海の弟子となり月照と名乗りました。
叔父蔵海が京都清水寺の成就院の住職と成り、叔父と一緒に京都に上ります。
天保6 年(1835)月照上人23歳の時、蔵海が亡くなったので跡を継いで成就院の住職になりました。
その後、国の内外が激動する時代がきたため、嘉永7 年(1854)弟信海に成就院の住職をゆずり、尊皇倒幕運動に参加しました。
近衛忠煕の和歌の門人となったことにより、和歌を通して近衛家に出入し、薩摩藩士や水戸藩士との接触を深めました。その中で、西郷隆盛とは大変親しくなりました。
安政5 年(1858)、安政の大獄が開始されると、月照上人は、捕縛の危険が迫ってきたため、京都を去り、西郷隆盛・有村俊斉、そして下僕の大槻重助らと一緒に、大阪から薩摩船で旅立ち、長州・福岡をへて、福岡藩士平野国臣、下僕大槻重助とともに鹿児島に入りますが、島津斎彬が亡くなった薩摩藩の空気は一変していて、月照上人をかくまう考えをなくし、日向送りが命じられます。日向送りというのは、薩摩の国境を越えたら殺せという意味を含んでいました。
そして、11 月15 日、日向に向かうため、月照上人・西郷隆盛・平野国臣・大槻重助は、錦江湾を渡り始めました。
その船から、死を決意した月照と西郷隆盛は錦江湾に身を投じました。
同乗していた平野国臣らによって、月照上人と西郷隆盛は錦江湾から引き揚げられましたが、西郷隆盛だけが助かり、月照は息を吹き返すことはありませんでした。
一方、成就院の住職をしていた月照上人の弟信海上人も、幕府に捕らえられ、京都の六角獄舎に投獄されたのち、江戸の小伝馬町牢屋敷に送られ、そこで獄中死します。

成就院の南にある北総門の北側(上写真)には、西郷隆盛の詩碑(右)、月照上人の歌碑(中央)、信海上人の歌碑が建てられています。(下写真ご参照)

右側の西郷隆盛の詩碑には「相約して淵に投ず 後先なし あに図らんや 波上再生の縁頭を回(めぐ)らせば 十有余年は夢 空しく幽明を隔てて墓前に哭す」と刻まれています。
中央の月照上人の碑には、辞世「大君の為には何か惜しからん 薩摩の迫門(せと)に身は沈むとも」が刻まれています。
左側には信海上人の辞世「西の海あずまのそらとかわれども こころはおなじ君が代のため」が刻まれています。
碑文の文字はあまりにも達筆で一部分読むのが難しいので、清水寺に問い合わせて全文を教えていただきました。

