富岡鉄斎邸跡(30年京都冬の旅⑫)
今日で、京都旅行の記事を一旦終りとします。
最終回は、富岡鉄斎の旧宅跡をご案内します。

富岡鉄斎邸跡は、御所近くの室町通にあり、たまたま、京都御所からホテルに徒歩で帰る途中に見つけました。
京都は、何気ない路地裏に史跡が残されていて驚くことが多いのですが、富岡鉄斎邸跡もそうでした。
現在は、京都府議会公舎として残されています。
内部は公開されていませんが、表門を入ると2階建の母屋があって,敷地の南端には書庫として使用された3階建の洋館があるようです。

富岡鉄斎は、近代日本文人画の巨匠として知られています。
富岡鉄斎は、天保7年に、京都の法衣商十一屋伝兵衛(富岡維叙(これのぶ))の次男として生まれました。
若い頃から国学・儒学・仏典を学び、明治になって、各所の神社の宮司を務めました。
そして、明治14年以降は京都に戻り、学問と画業に専念し、名声が高まり、ついには、文人画の最高峰といわれました。
この富岡鉄斎は、若い頃、太田垣蓮月に薫陶を受けていたことを「無私の日本人」(磯田道史著)を読んで知りました。

太田垣蓮月は、実父は伊賀上野の城代家老藤堂新七郎とされ、京都知恩院の寺侍大田垣光古(てるひさ)の養女として育てられました。
2度結婚しましたが、夫や子供らに先だたれ文政6年出家して蓮月と名のりました。
和歌が上手で、自分の歌をほりこんだ陶器は蓮月焼と呼ばれ人気がありました。
「無私の日本人」によれば、富岡鉄斎は、耳が不自由で父親に連れられて太田垣蓮月の家の近くに住んでいました。そして、蓮月焼の創作を手伝うようになり、それ以降、太田垣蓮月は、富岡鉄斎を慈しみ育ていきました。
そうして、磯田先生によれば、この同居が、富岡鉄斎を富岡鉄斎にしたそうです。
そんな富岡鉄斎の旧宅が、京都の住宅街の中に残されていて、驚きの発見でした。
赤印が富岡鉄斎邸跡です。

