目黒行人坂の火事〔大円寺②〕(目黒史跡散歩③)
大円寺は、振袖火事、車町の火事と並んで江戸三大火のひとつに挙げられる目黒行人坂の火事の火元といわれています。
そのため、それに関連する五百羅漢像(下写真)が残されています。

《目黒行人坂の火事》
振袖火事、車町の火事と並んで江戸三大火のひとつに挙げられるのが明和9年(1772年)におきた行人坂の火事です。この行人坂の火事は、大円寺が火元といわれています。
大円寺から出火した火事がどんどん延焼していって、上野浅草まで燃えつくし千住でようやく消し止まり、死者は『天下大変 江戸の災害と復興』によれば約1万5千人という大火事になりました。
当時、目黒は江戸から離れた田舎で、人家もそれほど多くなかったと思われます。その目黒で起きた火事が江戸市中まで延焼していったのは、南西の強風のせいだと思われます。
この火事の原因は放火といわれています。『目黒区史』にも大円寺に住んでいた悪僧眞秀が住職に怨みをもち火をつけたのがもとであるといわれていると書いてあります。
その放火犯を捕まえたのが火付盗賊改の長谷川平蔵宣雄つまり長谷川平蔵宣以(鬼平)の父でした。
この火事では、江戸城の櫓も焼失しました。このことから大円寺は以後76年間も再建を許されませんでした。
「江戸名所図会」では、大円寺は、行人坂の項目のなかで、「この寺。いま亡びたり」と触れられているだけです。また、行人坂を描いた絵図にも五百羅漢像が描かれているだけです。これにより、天保の頃には、お寺としては残されていなかったことが明らかです。
その間、御本尊(目黒区史では大日如来)や過去帳は隣の明王院に預けられていました。
そして、幕末の嘉永元年(1848)になって薩摩藩主島津家の帰依を得て、その祈祷所としてようやく再建されました。
嘉永元年の薩摩藩主は島津斉興ですので、大円寺の再興は島津斉興の尽力によるものと思われますが、大円寺には、その記録は残されていないとのことです。
《五百羅漢像》
大円寺には、この火事の犠牲者を供養するための石仏群があります。
山門を入った左手にずら~っと並ぶ石仏群は、中央に釈迦如来像そして左右に文殊・普賢像を配した釈迦三尊像が祀られています。(下写真が釈迦如来像です。)

釈迦三尊像の周りを十六羅漢像・十大弟子像が取り巻き、背後に491基の羅漢像が並んでいます。
釈迦如来像に天明元年(1781)の刻銘があることから、多くの像はこれ以降につくられたと考えられています。
石仏群は、多くの人からの浄財で石工が50年という歳月をかけて完成したといわれています。昭和45年、都有形文化財に指定されています。
通常の五百羅漢像は男性ですが、大円寺の五百羅漢像の中には女性と思われるものも安置されています。
《とろけ地蔵》
石仏群の手前、釈迦三尊像の横の向かって右手に顔や手が溶けたような異様なお地蔵様が立っています。(下写真)

このお地蔵様は「とろけ地蔵」と呼ばれています。江戸時代に漁師が品川の海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたそうです。
先日お邪魔した大円寺でのお話(下写真参照)では、この「とろけ地蔵」という名前は大円寺がなづけた名前ではなく、檀家の人たちの間に自然と広まった名前とのことです。


