八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)
大円寺は、八百屋お七の恋人吉三ゆかりの寺でもあります。
八百屋お七は、愛しい恋人に会うために火をつけ、その罪により処刑されたヒロインとして大変有名ですが、お七が避難したお寺や恋人の名前については、書物によって様々です。
そのなかで、井原西鶴が書いた「好色五人女」では、吉祥寺に避難しそこの寺小姓の吉三が恋人とされています。
その恋人吉三と大円寺は縁があるお寺であると寺伝で伝えられています。
そのため、西運ゆかりの建物として本堂西側の阿弥陀堂(下写真)があり、阿弥陀堂には、西運上人像やお七地蔵がお祀りされています。
《八百屋お七の恋人西運》
八百屋お七の恋人吉三は、お七が処刑された後、出家して西運を名乗りました。
下写真は阿弥陀堂内にお祀りされている西運上人像です。
そして、出家後、お七の菩提を弔うため、念仏を唱えながら諸国を巡りました。
その後、江戸に戻った西運は、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身を寄せたといいます。
そして、西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために目黒不動尊と浅草観音に隔夜1万日日参の悲願を立て、往復10里の道を、雨の日も風の日も首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら日参しました。こうして27年5ヶ月後に満願となりました。
この修行の中で、寄進が集まり、集まった浄財で、行人坂を石畳に修繕し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、明王院境内に念仏堂を建立しました。
しかし、明王院は明治初めごろ廃寺となってしまい大円寺に統合されました。
明王院にあった仏像などは大円寺に移され、西運の木像やお七地蔵などが現在の阿弥陀堂にお祀りされています。
阿弥陀堂は、西運に深い関心を持っていた大円寺住職によって、昭和18年、再建されました。
阿弥陀堂の御本尊は阿弥陀三尊像(下写真)です。
大円寺の阿弥陀如来像は、半跏像です。半跏というのは右足を曲げ左足を下に垂れた姿です。そして、印相は中品下生です。
半跏の阿弥陀如来像や中品下生の阿弥陀如来像は大変珍しいそうです。
阿弥陀如来像の前に、お七地蔵(下写真)がお祀りされています。満願の日に、西運の夢に出てきたお七の姿を刻んだものだそうです。
阿弥陀堂前には、西運の姿を刻んだ碑が建てられています。(下写真)
その碑には大円寺の福田実衍(じつえん)師が、昭和18年、阿弥陀堂を再建した際に描いてもらった「お七吉三縁起絵巻」の一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿が刻まれています。また、上部に書かれている賛は「吉三発心 只たのむ かねの音きけよ 秋の暮」と書かれているそうです。
さらに、境内には、元禄16年に西運が建てた「行人坂敷石造道供養碑」(下写真)があります。
それには、行人坂を利用する念仏行者たちが、目黒不動尊と浅草観音に参詣し、人々から喜捨を受け、行人坂に敷石の道を造るため、この成功と往来の安全を供養祈願したことが書かれているようです。
【4月20日追記】
大円寺の本堂手前の五百羅漢像側に、西運が造ったとされる太鼓橋の石材がベンチとして残されています。
写真の左手のベンチ風に設置されている石が、太鼓橋として使用されていたものです。
写真右手には、そのことを説明した石柱が写っています。