「お七の井戸」と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)
行人坂を下っていくと、八百屋お七の恋人西運に関係する史跡として「お七の井戸」と『太鼓橋』があります。 今日は、その二つを紹介します。
《お七の井戸》
目黒雅叙園のエントランスに向かう歩道脇に「お七の井戸」があります。
雅叙園のエントランスから庭園にかけて明治18年頃まで、明王院というお寺がありましました。
幕末の切絵図をみると、明王院は大円寺より大きなお寺として描かれています。
明王院は、八百屋お七の恋人吉三が出家した後の西運がいたお寺です。
西運は、目黒不動と浅草観音に、隔夜一万回の日参念仏行を行ったと言われています。
雅叙園の駐車場入り口にある井戸は、西運が念仏行に出かける際に水垢離とったといわれている井戸です。
《夕日の岡》
下写真は、お七の井戸を遠くから撮った写真ですが、お七の井戸の後ろ側にある斜面一帯は、江戸時代は、夕日の岡と呼ばれ、紅葉の名所でした。
江戸の紅葉の名所としては、品川の海晏寺が有名でしたが、海晏寺と並ぶ名所だったようです。
しかしながら、「江戸名所図会」には、「いまは楓樹少なく、ただ名のみ存せり」と書かれていますので、江戸時代後期の天保の頃には、紅葉はほとんど見られなくなったようです。
《太鼓橋》
太鼓橋は、目黒川にかかる橋で、現在の橋は平成3年に完成したものです。
江戸時代の橋は、太鼓の胴の形をしていたため「太鼓橋」と呼ばれました。(下段の広重の浮世をご参照ください。)
江戸で最初に架橋された唐式の石拱橋(せっこうきょう:石造のアーチ橋)で、建設された当時としては珍しく目黒の名物でした。
太鼓橋を造った人物は、八百屋お七の恋人西運である説があります。
それによれば、西運は、目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中、江戸の市民から寄進を集めて太鼓橋を造ったといわれています。
また、諸国を回遊する木喰上人が架けたとも、八丁堀の町人が資金を出し合い完成させたという説もあります。
『江戸名所図会』には、「柱を用ひず、両岸より石を畳み出して橋とす。故に横面よりこれを望めば、太鼓の胴に髣髴たり。故に世俗、しか号く。享保の末、木食上人これを制するとなり」と木食上人が造ったと書いてあります。
太鼓橋を描いた浮世絵として有名なものが、歌川広重の名所江戸百景のうちの「目黒太鼓橋夕日の岡」(下写真)です。橋の欄干にもそのレリーフがはめ込まれています。
「目黒太鼓橋夕日の岡」で描かれた風景は、すっかり変わっていますが、一つだけ変わらないものがあります。それが、目黒雅叙園側の橋のたもとにある椎の木です。
下写真は、椎の木を近くで写した写真です。
広重が描いた太鼓橋は、大正9年の豪雨で流されてしまい、昭和7年になって先代の鉄橋が架けられ、そして、平成3年に現在のものになりました。
今は、桜の季節には、花見客でごったがえす桜の名所となりました。下写真は今年(平成30年)3月14日の太鼓橋です。桜が満開でした。