永代橋崩落事故〔海福寺③〕(目黒史跡散歩⑨)
昨日、海福寺にある永代橋崩落事故の犠牲者の供養塔についてご案内しました。
そこで、今日は、永代橋崩落事故とはどのような事故だったのかについて説明しようと思います。下写真は現在の永代橋です。
永代橋は、元禄11年(1698)に隅田川に架かる4番目の橋として架橋されました。
橋の長さは110間(約200メートル)で、橋の下を船が航行するため、桁下は大潮のときでも3メートル以上確保されていたという巨大な橋でした。
しかし、架橋してから時が経つに従い橋の損傷が激しくなりました。
幕府は、財政的に厳しく修理もままならないため、町人請負にして、補修工事をしていましたが、町人請負としてもなかなか十分な補修はできませんでした。
そうした中で、文化4年(1807)に、永代橋崩落事故が起こります。
文化4年8月、江戸三大祭のひとつ、深川富岡八幡宮の祭礼が久しぶりに開催されることになりました。(下写真は、富岡八幡宮)
東京都教育委員会設置の説明版板では12年ぶり、滝沢馬琴編集の「兎園小説余禄」によれば30余年ぶり、太田南畝の「夢の憂橋」によれば34年ぶりと、年数は違っていますが、長いこと開催されていなかった富岡八幡宮の祭礼がしばらくぶりに開催されることとなり、江戸っ子の関心を集めていました。
*ウィキペディアには、永代橋崩落事故について触れたのが「兎園小説」と書かれていますが、正しくは「兎園小説余禄」ですので、ご注意ください。
富岡八幡宮の祭礼は、通常は8月15日に開催されますが、雨のため順延され8月19日開催となりました。
8月19日当日は、朝早くから大勢の見物客が深川に向かいました。
その時、将軍関係者が永代橋の下を御座船で通行することから、永代橋は午前10時ごろから一時通行止めとなりました。
東京都教育委員会設置の説明板では、「将軍世子」とされているので11代将軍家斉の子供徳川家慶ということなります。一方、兎園小説では、一橋家と書かれていますので、徳川家斉の実父一橋治斉(はるさだ)ということになると思われます。
こうした違いはありますが、いずれにしても永代橋は通行止めとされていました。その通行止めが解除されるとともに、それまで、通行止めのため、橋のたもとでごったがえしていて大群衆が一気に永代橋を渡り始めました。その結果、大勢の重みに耐えかねて永代橋が崩れ落ちてしまいました。
大群衆の後方の人々は、橋が崩れ落ちたことを知らず、どんどん前に進んでくるため、最前列の人たちは、後ろから押されて、将棋倒しのように次々と隅田川に落ちていくという悲惨な情景が呈され、悲劇が拡大しました。
この時、危機を察した武士が欄干につかまりつつ刀を振り回し、人々が後ずさりしたため落下は止まったと「兎園小説」や「夢の憂橋」に書かれています。
こうした緊急対応がありましたが、「夢の憂橋」と説明板によれば440名の人が亡くなりました。
さらに行方不明者を含めれば被害者は1000人を超えたといわれています。なお、兎園小説では、「水没の老若男女数千人」と書かれていますが、これは被害者が多すぎるように思われます。
この大事故は、歌舞伎や落語の題材ともなり、歌舞伎『八幡祭小望月賑(はちまん まつりよみやの にぎわい)』、落語「永代橋」などの作品が残されています。
『八幡祭小望月賑』は、永代橋崩落事件と文政元年(1818)に起きた本郷の呉服屋が深川芸者を刺殺した事件を脚色した河竹黙阿弥の作品です。
また、You Tubeには、三遊亭円生と林家正蔵の落語「永代橋」がアップされています。
昭和の名人と呼ばれる二人の「永代橋」を聴いてみるもの良いと思います。

