五百羅漢寺の羅漢像〔五百羅漢寺①〕(目黒史跡散歩⑩)
海福寺のすぐそばに、五百羅漢寺があります。
五百羅漢寺は、海福寺と同じように、江戸時代は、本所にありましたが、明治になってから目黒に移転してきたお寺です。
五百羅漢寺の創建は、元禄8年(1695)で、五百羅漢像を制作した松雲元慶(しょううんげんけい)により創建され、松雲が開基、師の鉄眼が開山とされています。
五百羅漢寺は、本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建 されましたが、江戸時代後期の弘化年間の暴風雨や安政の大地震で荒廃し、明治20年に本所緑町に移転した後、明治41年、目黒の現在地に移ってきました。
移転後も、大正6年の暴風雨や大正12年の関東大震災によって、昭和初期、大円寺は大変零落しました。
そうした時期に、もと新橋の芸者で「お鯉さん」と呼ばれていた安藤妙照尼が昭和13年に出家し大円寺に入り、それから4代にわたり尼僧が大円寺をまもってきました。
大変近代的なお寺ですが、これらのお堂は昭和56年に完成したものです。
五百羅漢寺で有名なのは五百羅漢像です。
羅漢像は当初は500余体あり、現在でも305体が残されています。
そのうち146体の羅漢像が羅漢堂に安置されていて、残りは本堂(下写真)に安置されています。
羅漢堂や本堂内部は撮影禁止ですので、羅漢像をアップできないのが残念です。
下写真は、拝観する際にいただいたパンフレットです。こちらでご想像ください。
こうした像が、羅漢堂を本堂にずらっ~と並んでいて壮観です。
五百羅漢像を造ったのは、松雲元慶(しょううんげんけい)というお坊さんです。
松雲元慶は、黄檗宗の鉄眼道光(てつげんどうこう)に師事し、豊前国耶馬渓の羅漢寺の羅漢像に感激して五百羅漢を造ることを発願して、江戸で5代将軍綱吉の母桂昌院らの寄進をえて完成させました。
下写真は、お寺入口にある五百羅漢の一つ「不退法尊者」の銅像です。
羅漢さんは お釈迦さまのお弟子さんで実在した人々です。
お釈迦さまの説法を実際に聴き教えのとおりに修行に励んで煩悩を払い聖者になった人たちです。
修行を積んで煩悩を払い真実の智慧を完成した聖者をインドで「アラハン」と讃えました。仏教が中国に伝わり「アラハン」の発音をそのまま生かして「阿羅漢」と表現し、使い慣れるうちに「阿」がとれて「羅漢」と呼ばれるようになったそうです。
ちなみに「江戸名所図会」の行人坂の説明の中に、大円寺の五百羅漢の解説がありますが、その中では、「五百阿羅漢」と書いてあります。
お釈迦さまが亡くなられたときに集まった500人のお弟子さんたちが「五百羅漢」のモデルであるといわれています。