仁王門と鷹居の松〔目黒不動尊①〕(目黒史跡散歩⑫)
有名な目黒のお不動様の正式な名前は龍泉寺と言います。
目黒のお不動様は、寺伝では、大同3年(808)慈覚大師円仁が15歳の時に下野国から比叡山に赴く途中に、この地で不動明王の夢を見ました。そして夢にみた像を自ら刻み、それを安置したことに始まるといいます。
貞観4年(862)清和天皇から「泰叡」の勅額を賜わり、それから山号を「泰叡山」とつけられました。
ご本尊は、目黒不動明王と呼ばれています。
江戸には五色不動と呼ばれるお不動様があります。
五色不動とは、五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の5種6個所のお不動様をいいます。
《仁王門》
目黒のお不動様でまず目に入るのが仁王門です。
仁王門は昭和36年に再建されたものです。
仁王門の上には、「泰叡山」と書かれた額があります。
「名所図会」には、江戸時代の楼門に掲げられていた「泰叡山」の額は後水尾天皇の筆によるものと書かれています。
仁王門に安置されている仁王像は、目黒在住の彫刻家・後藤良(ごとうなおし)が制作を依頼され製作にとりかかりました。後藤良は皇居外苑の楠正成の銅像の馬などを制作した後藤貞行の息子ですが、能彫刻を確立したことで有名です。
後藤良(ごとうなおし)は、昭和32年、原型が完成したところで、突然に亡くなり完成を見ることができませんでした。その後の作業を3人の高弟が引き継ぎ、仁王像は昭和35年に完成しました。
《鷹居の松(たかすえのまつ)》
仁王門を過ぎ、真っ直ぐ進むと、本堂に通じる男坂が現れます。その男坂の登り口の右手に松がありますが、その松は鷹居(たかすえ)の松と呼ばれています。
寛永元年(1624)、家光が目黒の地で鷹狩をした際に、鷹が行方不明になりました。
そこで寺の別当の実栄に命じて祈願したところ、鷹が帰ってきて、松のこずえに止まり、家光が声をかけると、鷹は手に移りました。
家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松(たかすえのまつ)」と命名するとともにこの不動尊を深く尊信し、火災のために堂塔ことごとく烏有に帰した当寺再建のため堂塔を寄進し、寛永11年(1634)には諸堂末寺等53棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。
《役の行者像》
男坂は急坂ですが、男坂の右手に登りの緩やかな女坂があります。
その途中に役の行者像があります。
役の行者像は、高さ42.2センチメートル、坐高92.7センチメートルある銅製で、その表面は黒光りし鋳工の間でカラス銅と呼ばれる色をしています。
腹部、胸部、腕部に刻銘があり、それによると、寛政8年(1796)太田駿河守藤原正義による制作だそうです。