甘藷先生青木昆陽の事績〔目黒不動尊④〕(目黒史跡散歩⑮)
青木昆陽は、サツマイモの栽培を広めた人物として広く知られています。今日は青木昆陽の略歴を書いてみます。
青木昆陽と呼ばれますが、昆陽は号で、通称は文蔵、名は敦書(あつのり、あつぶみの両説がある)といいます。
江戸日本橋小田原町(東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の息子として生まれました。
幼いころから学問が好きで、享保4年(1719)22歳の時、京都に遊学し、京都の儒学者伊藤東涯に学びました。
従って、青木昆陽は儒学者でもあります。そのため、瀧泉寺のお墓は儒葬だそうです。
京都から江戸に戻りましたが、その時期はハッキリしていないようで、享保6.7年頃のようです。
その頃には、実家は魚問屋の商売はやめていたので、八丁堀に両親と住むことにしました。
この家が、南町奉行所の与力で加藤枝直(かとうえなお)の土地にあり、加藤枝直と知り合うこととなったと言われています。
ここで両親と暮らしていましたが、享保11年(1826)に父親が亡くなり、昆陽は3年間の喪に服しました。そして3年の喪が明けてまもなくの享保15年(1730)に、今度は母親が亡くなり、また3年の喪に服しました。
こうした孝行を奇特と感じた加藤枝直は、享保18年(1733)、仕えていた南町奉行大岡越前守忠相に推挙しました。
この時に、大岡越前守忠相から、何か心得ているものがあれば提出するようにといわれて提出したのが『蕃藷考(ばんしょこう)』といわれています。
これが8代将軍徳川吉宗にも報告され、吉宗からサツマイモの試作を命じられます。
享保19年(1735)には薩摩芋御用掛を拝命し、薩摩より種いもを取り寄せて江戸・小石川白山(東京都文京区白山)の幕府薬草園(現在の小石川植物園)で試作を行い、のち下総国馬加(まくはり)村(千葉市花見川区幕張)、上総国不動堂村(千葉県九十九里町不動堂)でも試作し、これが全国に普及されました。
馬加(まくはり)村が選ばれたのは、そこが町奉行与力の領地であったからだそうです。
小石川植物園には甘藷試作跡には記念碑があります。(下写真)
幕張町には、芋神様ともよばれる昆陽神社があるそうです。

元文2年には、大岡越前守忠相の尽力により幕府の書庫を自由に読むことが許され、筆や紙代も支給されることになりました。
このことを青木昆陽は大岡越前守忠相のお蔭だと大変感激して、青木昆陽自身の随筆「草盧雑談」のなかに次のように書き残しています。
これ上の御恵ふかきゆえなれども大岡公の言上し玉はずんば上なんぞ敦書(あつのり:昆陽の本名)をしろしめさん大岡公の敦書に於ける誠に廣大のことなり。これを記すは、もし我子孫あらば永く忘れしめじとなり。
そして、元文4年(1739)には御書物御用達を拝命しました。ついに幕臣となったのです。そして、明和4年(1767)70歳の時に「御書物奉行となりました。
魚問屋の息子として生まれた人が、幕臣となりついに書物奉行にまで昇進したのです。
青木昆陽は、サツマイモの普及に大きな功績を残したことが広く知られています。そのため「甘藷先生」とも呼ばれているわけですが、それ以外に、オランダ語を学び、蘭学の祖となるという大きな業績も残しています。しかし、そのことは、残念ながらあまり知られていないように思います。
青木昆陽は、将軍徳川吉宗の命で野呂元丈(のろげんじょう)とともにオランダ語を学び、『和蘭文訳』『和蘭文字略考』などのオランダ語関係の本を著しました。
『解体新書』を著わした前野良沢は、青木昆陽にオランダ語を学んだ最後の弟子です。
前野良沢が青木昆陽にオランダ語を弟子入りしたのが明和6年ですが、その年のうちに青木昆陽が亡くなっているので、1年も学ぶ期間がありませんでした。
それでも、前野良沢がオランダ語を習得するのに大きな影響を与えています。
青木昆陽は、明和6年(1767)10月12日に書物奉行在職のまま72歳でなくなりました。
青木昆陽は、魚問屋の息子として生まれ、親への孝行と自分自身の努力により、最後は書物奉行まで栄進した類まれな人であるといえると思います。

