成就院と保科正之(目黒史跡散歩⑯)
成就院は、目黒のお不動様からみて、南東方向つまり目黒のお不動様の本来の参道沿いにあります。
成就院は、天安2年(858)慈覚大師円仁により創建されたお寺です。下は成就院の本堂です。

本尊は慈覚大師の作と伝えられ坐像の薬師如来像で3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗っていることから俗に蛸薬師とよばれています。
蛸薬師様は、次のような由来があります。
慈覚大師円仁は、下野国都賀郡(現在の栃木県下都賀郡)に生まれ、幼くして伝教大師最澄の弟子となるため比叡山に登り、学問修行に励みました。
慈覚大師は若いころから眼病を患っていたため、自分でお薬師さまの小さな像を刻み、唐に渡る時もこれを持仏として持っていきました。
そして、修業が終わり帰国する際、海が荒れましたので、そのお薬師様を海に投じた所 風雨がおさまり、無事に筑紫の港に帰り着かくことができました。
その後、慈覚大師が、肥前の松浦に行った際に、さきに海の神様にささげられたお薬師さまのお像が海上に光明を放ちながら蛸にのって浮かんでいたので、大師は大変喜ばれたそうです。
その後、天安2年(858)目黒の地に来た時、諸病平癒のためとして、さきに松浦にて拝んだお御姿を模して、お薬師様を彫られ、蛸薬師如来としてお祀りになりました。
こうしたご由緒から、蛸薬師如来は秘仏とされていて、1月8日の初薬師縁日にだけ、ご開帳となります。
目黒区史によると、江戸時代は、祈願者は蛸を断ち、蛸の絵馬を掲げ、疫病除けを願ったそうです。
《お静地蔵》
本堂の脇にある7体の仏様は「お静地蔵」と呼ばれています。
「お静」というのは、会津藩初代藩主保科正之のお母さんの名前です。
ここの7体の仏様は、お静様が寄進されたものです。それが下の写真です。

お静は「お腹さま」となることを願い、3体の観音像を納めました。
7体の右側にある3体です。それが下写真です。

そして、生まれたわが子が無事成育するよう祈り3体のお地蔵様を納めたものと言われています。7体のうち左側の3体です。それが下写真です。

そして、わが子が、高遠城主保科正之となり願いが叶ったことからお礼として阿弥陀如来像を寄進したそうです。7体の中央に鎮座しています。

お静は、秀忠の乳母「大姥」の侍女として奉公にあがりましたが、2代将軍秀忠の目にとまり、寵愛を受けることになりました。
やがて、身ごもりますが、「お江」の威勢を怖れ、中絶し、再度、奉公に戻り、再び秀忠の寵愛を受け、また身ごもります。
この時、また中絶の話が出ますが、今度は弟が強く反対し、一族あげてお静を助けることとなりました。この時、頼もしい協力者が現れます。武田信玄の娘見性院でした。
見性院は、妹の信松院をつけて自分の領地の武蔵国足立郡大牧村に匿い、無事にお静に子供を産ませたのです。
こうして男子が誕生し「幸松」と名付けられました。
「幸松」は、見性院の保護を受けた縁から、武田家の旧臣でもあった高遠藩の保科正光の養子となり、保科姓を名乗り「保科正之」となりました。
お静は、秀忠が没した寛永九年(1632)、落飾して浄光院と号し、寛永3年に57歳で没しました。
3代将軍家光が、異母弟の保科正之の存在を知ることになったきっかけは、成就院での住職との会話です。
鷹狩りに来ていた家光は、身分を隠して、成就院で休憩をとりました。
その時、家光が住職に、こんな片田舎のお寺の客殿にりっぱな絵がかかれているが、誰の援助かと聞かれたので、住職は、「保科肥後守の母上の御援助」ですと答えました。
そして、その話の延長で、住職が
「保科肥後守殿は、今の将軍家の正しき御弟だというのに、わずかな領地しかもらえず、貧しい暮らしをしているそうで、おいたわしい。我らのような賤しきものも、兄弟は仲良くするのが人の習いであると知っている。身分の高い人というのは、ずいぶんと情けがないものだ」といったので、家光は保科正之が異母弟であることを知ったといいます。
秀忠の死後、第3代将軍家光はこの異母弟を大変かわいがりました。
寛永13年(1636)には出羽山形藩20万石を拝領し、寛永20年(1643)には、会津藩23万石の藩主となりました。
なお、正光は実子がいなかったため、養子として弟の正貞を迎えていましたが、正之が養子となったため、正貞を廃嫡しました。
しかし、後に、保科正貞は1万7000石(最終2万石)の大名となりました。これが飯野藩(千葉県富津市)保科家です。
赤印が成就院です。青印が龍泉寺(目黒不動尊)です。

