行元寺の大田南畝の隠語碑(目黒史跡散歩⑰)
行元寺は、目黒不動駅の北側にある「かむろ坂」の途中にあります。
道路から少し入った先に門があり、門は閉ざされていました。

門前の参道右手に太田南畝の筆による隠語の石碑があります。
行元寺はもともと牛込肴町にあり行願寺とも称されていました。
明治末に区画整理により、現在地に移転しました。
戦災により本堂が焼失し、昭和30年に本堂が再建されました。ただ、門がとざれていて本堂の様子はわかりませんでした。
行元寺にある太田南畝の筆による隠語の石碑の表面には、「念彼観音力 還著於本人」と観音経の一部が刻まれています。下写真

この石碑の裏面に次のように書かれています。
「癸卯天明陽月八 二人不戴九人誰 同有下田十一口 湛乎無水納無絲 南畝子」
これが隠語で書かれています。

太田南畝は自分自身で「一話一言」巻四十一(『日本随筆大成』では別巻六に収録されています)の中で次のように書いています。
○牛込行元寺復讎の碑
天明三年契卯十月八日牛込行元寺にて敵討あり。寺門の内の柳の木のもとにてありしかば、一の碑をたてゝ、これにものかきてよと寺主のこひしまゝ、此寺に観世音あれば、
念彼観音力 還著於本文
といふ文字を書つかはして、その碑の背に隠語にて、
癸卯天明陽月八 二人不戴九人誰
同有下田十一口 湛乎無水納無糸
二人は天なり九人は仇なり、敵うちしものは富吉といひし故、同下の田は冨の字、十一口は吉の字なり。敵の名は甚内といひし故、湛に水なく納に糸なきは甚内帽鈴いその比寺主人の見てとやかくいはん事を恐れ、碑面の字ばかり刻して背の字は刻せざりしが、近比三十三回の忌にあたりて、もはや年へし事なれば子細あるまじきとて、刻そへしといふ。庚辰五月十一日晨
つまり、仇討ちがあった時に、行元寺の住職から、仇討ちの事を書いて欲しいと依頼されたので、表に「念彼観音力 還著於本文」と書いて、その裏面に隠語で、「葵卯天明陽月八 二人不戴九人誰 同有下田十一口 湛乎無水納無糸」と書いた。 しかし、仇討当時は、とやかくいわれるのを恐れて、「念彼観音力 還著於本文」とだけ書いておいたが、33回忌を迎え、かなりの時間がたち問題がないだろうと考え、隠語の裏面も刻んだということです。
隠語の意味をひもとくと次のようになります。
癸卯天明陽月八とは、癸卯(みずのとう、きぼう)の年つまり天明3年を表し、陽月は10月の異称ですので、天明3年10月8日となります。
二人不戴九人誰は、二と人を重ねると「天」の字になり、九と人(にんべん)を合わせると「仇」になります。これで「天不戴仇誰」となり「(ともに)天を戴(いただか)ざる仇=不倶戴天の仇は誰」になります。
同有下田十一口は、同の字の下に田の字有りの意で「冨」となり、十一口は、続けて書くと「吉」の字になり、二つあわせて「冨吉」となります。
湛乎無水納無絲とは、湛の字に水(さんずい)が無いので、「甚」となり、納の字に糸が無いので「内」となり、二つあわせて「甚内」となります。
それでは、この仇討ちはどんな仇討だったのでしょうか
それについては、『武江年表』の天明3年の項(中公文庫「定本武江年表中」)に次のように書いてありました。
(天明三年)十月八日、牛込神楽坂行元寺境内にて親の仇討ありき。此事、豊竹肥前座にて浄るり狂言に作る。松平一学知行所、下総相馬郡早尾村名主八右衛門組下百姓富吉心願の意趣、左に申上候といふ書付、懐中す。敵の首を切落したるものは此富吉、討たるものは、同村百姓甚内といふ者なり。富吉(本年二十八歳)、当時剣道指南戸ヶ崎熊太郎召使初太郎と云ふ。甚内、当時御先手浅井小右衛門組二宮丈右衛門(本年四十七歳)。
下総国相馬郡早尾村の百姓冨吉が、同じ村の百姓の甚内が親の仇を牛込神楽坂の行元寺境内でうったのが、この仇討で、「神楽坂の仇討」と呼ばれています。
行元寺の18世印南慶隆は書道家としても有名で、終戦直後に書いた隷書の読売新聞題字は現在も使用されています。
赤印が行元寺です。青印が龍泉寺(目黒不動尊)です。

