延命院事件 (日暮里・谷中史跡散歩②)
日暮里の延命院では、江戸時代の享和年間に、「延命院事件」と呼ばれる江戸中を騒がせる大事件が起こりました。この事件は、延命院住職日潤の女犯(にょぼん)事件ですが、相手に大奥の女中が含まれていたため、大奥を巻き込んだ大スキャンダルとなり、江戸を揺るがせました。
延命院事件の中心人物日潤は、日道とも書いてある本もあります。
この日潤の供養塔が、現在も延命院の本堂手前に建っています。

日潤は、寛政年間(1789~1801)に延命院の住職となりました。
日潤は、もと役者であったともいわれ、初代尾上菊五郎の子供であったと書いてある本もあり、大変男前であっったし、話も上手だったそうです。
そのため、女性の信者に大変人気があり、大勢の女性信者が延命院に参詣sるようになりました。
日潤は、法話や祈祷を名目に、そうした女性信者と関係をもつようになり、また参籠と称して延命院に宿泊し女性と関係をもつようになったと言われています。
その相手は、庶民の婦女子だけでなく、大名家や御三家さらには大奥の女中らを誘惑し姦淫したといいます。
こうした話が江戸中の話題となり、ついには寺社奉行脇坂淡路守安董(やすただ)にまで届きました。
脇坂家は外様大名でしたが、脇坂安董は、寛政3年寺社奉行となっていました。脇坂安董は、延命院事件や後の但馬出石(いずし)藩の仙石騒動などの事件をさばき、天保8年に老中にまですすんだ優秀な大名です。
情報を得た脇坂安董は、取締りを決意しますが、大奥の奥女中も関係していることから安易に動くわけにはいきませんでした。
そのため、寺社奉行脇坂淡路守安董は、家臣の娘を密偵として延命院に送り込み確かな証拠をつかんでから延命院を急襲したと言われています。
享和3年(1803)、寺社奉行脇坂淡路守安董の摘発を受け、7月29日に日潤は斬罪となり、関係のあった婦女子も押込などそれぞれ処罰されました。
太田南畝の「一話一言」巻三十八に、この延命院事件の判決内容が記録されています。首謀者である日潤(「一話一言」では日道となっています)とその共犯者である所化(修行僧)柳全の判決は次の通りです。
亥六月六日入 脇坂淡路守懸り
谷中日蓮宗 延命院 日道四十歳
右之者儀、一寺之住職たる身分をも不顧、淫慾を恣にし、源太郎妹きん又は大奥部屋方下女ころと密通に及び、其外屋形向相勤倹女両三人へ艶書をおくり、右之女参詣之節密会をとげ、或はっやなどx申なし寺内に宿止致させ、殊にころ懐娘のよし承り堕胎之薬を遣し、惣て破戒無懇之所行にて、其上寺内作事之義、奉行所へ中立恨趣と引違ひ勝手艦に建直し候事共、重々不届之至に付死罪申付之。
谷中日蓮宗延命院納所柳全(六十歳)
此者儀、延命院所化にて、女犯不相成身分に罷在ながら、新吉原五十軒屋清太郎母りせと密会いたし及女犯侯段、不届に付晒之上触頭へ相渡、寺法之通可取計旨申渡引渡遣もの也。
また、次の大奥・御三家・御三卿の女中たちが、永の押込の処罰を受けています。尾張藩奥女中なを(33歳)、西丸奥女中梅村の下女ころ、一橋家奥女中はな(19歳)、同じく一橋家奥女中ゆい(30歳)。
さらに数名の女性が処罰されたと「一話一言」に書かれています。
後日この延命院事件は歌舞伎に取り上げられ、河竹黙阿弥によって歌舞伎『日月星享和政談(じつげつせいきょうわせいだん)』(日潤は歌舞伎では日当となっているため通称「延命院日当」と呼ばれる)に脚色され、明治11年東京・新富座で5代目尾上菊五郎の日当で初演されました。

その上演にあたり、日潤上人追善のため5代目尾上菊五郎と12代守田勘弥によって建てられた供養塔が建てられました。供養塔には「行硯院日潤聖人」と刻まれています。(上写真)
その前の線香立てには、尾上菊五郎と守田勘弥の名前が刻まれています。供養塔建立の際に一緒に設置されたものだと思います。(下写真)


