西日暮里公園(日暮里・谷中史跡めぐり⑤)
延命院と笠森お仙など今年の江戸検のお題「江戸のヒロインたち」に関係する記事をひとまず終りましたので、これからは先日のご案内ルートに従って、日暮里・谷中の史跡をご紹介していきます。
今日は、西日暮里公園をご案内します。下写真は公園入口からみた西日暮里公園です。

西日暮里公園は西日暮里駅の南側の高台にあります。
西日暮里公園は、もとは、口演の西南方崖下に隣接している青雲寺の境内の一部でした。
青雲寺は、谷中七福神のうちの恵比寿様がお祀りされていることで有名です。
明治7年に、現在の西日暮里公園一帯が、加賀藩前田家に売却されました。こうしたことが、下写真右手に写っている荒川区教育委員会の説明板に書いてあります。

前田家は、それ以降、前田家当主の墓地として使用しました。
ここには、前田家13代当主(藩主としては12代)前田斉泰(なりやす)、14代当主前田慶寧(よしやす)、15代前田利嗣(としつぐ)16代前田利為(としなり)の4代の神式の墓地がありました。
前田家の墓地は、昭和47年に金沢に改葬され、その跡地に西日暮里公園が開設されました。
なお、前田家13代当主の前田斉泰は、11代将軍家斉の娘溶姫(ようひめ)が輿入れした相手です。
そして、14代当主慶寧は、斉泰と溶姫との間に生まれた子供です。
《道灌山》
西日暮里公園には、道灌山についての説明板(下写真)がありましたので、道灌山について説明しておきます。

西日暮里4丁目付近の台地は、道灌山と呼ばれ、江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山などを望むことができました。
道灌山の名前の由来には二つの言い伝えがあります。
一つは鎌倉時代、谷中感応寺(現在は天王寺)を開いた新堀(日暮里)の土豪関小次郎長耀(ながてる)、出家して道閑入道と呼ばれた人の屋敷があったところからこの名前がついたという説。
もう一つは江戸城を築いた太田道灌の出城がこの地にあったことからついたという説です。
道灌山は、江戸時代は、「虫聴き」の名所としても知られ、秋になると文人たちが訪れ、月を見ながら松虫や鈴虫の音に聴き入りました。
《道灌船繋松(ふなつなぎまつ)》
西日暮里公園には、江戸時代、道灌船繋松と呼ばれる大きな松がありました。
それについても説明されていました。(下写真)

「江戸名所図会」には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたと書かれていて、江戸名所図会の絵には、道灌船繋ぎの松が、台地上に高くそびえています。
安永元年(1772)の秋台風のため一本が折れ、残り一本になってしまいました。
この松の脇に「日暮里舟繋松之碑(にっぽりのふねをつなぐまつのひ)」が建てられましたが、現在は、青雲寺本堂脇に移されています。
『武江年表』には、安永元(1772)年にこの碑が建てられたと書いてあります。
☆参考 『江戸名所図会』船繋ぎの松の説明
「青雲寺の境内、崖に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)或人云く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船繋の松と唱ふるとぞ。」
赤印が、西日暮里公園です。

