道潅丘碑〔本行寺①〕(日暮里・谷中史跡巡り⑫)
本行寺は、日暮里駅北口からすぐです。
御殿坂に面して大きな山門(下写真)がありますので、すぐにわかると思います。
そのためか、谷中銀座に行こうとする観光客とくに外国人の観光客が境内を拝観しているのをよくみかけました。

本行寺は日蓮宗のお寺です。
大永6年(1526)太田道灌の孫の太田資高が、父太田資康の菩提を弔うため平河口(現在の大手町近辺)に建立したと伝えられています。
その後、神田、谷中と移り、宝永6年(1709)現在地に移転しました。
この地には太田道灌が築いたという物見塚があることから縁のある土地であったということが言えますが、それが移転の理由かどうかは不明です。下写真が本堂です。

《道灌丘碑》
太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったといいます。
寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩主太田氏などが道灌の業績を記した碑を塚の脇に建てました。
しかし、明治になって物見塚は鉄道敷設でなくなり、道灌丘碑だけが残りました。

《小林一茶句碑》
21世住職の日桓(にっかん)上人は俳号を「一瓢」という俳人で、多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶もしばしば本行寺を訪ねたそうです。
本堂手前に一茶の「陽炎や 道灌どのの 物見塚」という句碑があります。

《月見寺》
景勝地で観月の地として有名だったので通称「月見寺」ともよばれていました。
一茶の句碑の向かい側に種田山頭火の「ほっと月がある東京に来てゐる」の句碑があるのも、江戸時代に「月見寺」と呼ばれるお寺ならではの句碑です。
ちなみに種田山頭火の句碑は東京では本行寺にしかない貴重なものだそうです。

【参考】
道灌丘碑には何が書いてあるのかいろいろ調べましたら、ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会〈5〉』に《道灌丘碑文》の詳細が載っていましたので、参考に記しておきます。原文は漢文ですので、原文を読み下し、注釈等をつけたものだと思います。
《道灌丘碑文》
里を日暮といひ、寺を本行といふ。東都郭北にあり。寺に丘あり、道灌といふ。丘なんぞ道灌と名づくる。太田氏の号なるか。里人太田氏を思ふ。里人なんぞ太田氏を思ふ。その恵みを忘るるなければなり。寺の西北に山あり、また道灌といふ。けだし山はすなはち太田氏保鄣(ほしょう)〔とりで〕の遺にして、丘はすなはちその斥候台の址なり。ゆゑに丘なくただ址のみこれあり。里人の太田氏を思ふより刱(はじ)まるなり。
丘ありてより、いまに二百有余年。相伝ふ、むかし太田氏すでに亡ぶ。里人その墟を過ぐるに、ことごとく禾黍(かしょ)となる。塁壊れ台圮(やぶ)るるを閔(あわれみ)み、彷徨して去るに忍びず、しかしてその址に丘す。ゆゑに丘と山とみなその号を用ひて名づく。寺もと谷中の里にあり。太田氏の群屏摂(へいせつ)〔多くの寺社〕あるところにして、道灌の曾孫いまの懸河侯〔遠江国掛川藩主〕、世々相承してもってその祀を守る。寺と群屏摂とこの里に遷(うつ)るは、宝永〔1704~11〕中よりなり。遷ってすなはちこの丘を得る。けだし幾(こいねが)はざるに得る、奇といはざるべけんや。
これを譜牒に稽(かんが)ふるに、太田氏、名は持資、官は左衛門大夫、道灌はその号なり。源光禄頼政十世の孫。父道真、名は資清。永享四年壬子(1432)をもって、道灌を相州扇谷に生む。少(わか)くして恢廓(かいふく)〔度量のあること〕、大志あり。博く経史に渉(わた)り、兵法を善くし、画策に明らかなり。このとき天下戦争、諸国瓜裂(かれつ)し、おのおのその党に拠り、迭(たが)ひに唇歯(しんし)となる。
道真・道灌の二世、管領上杉氏に属す。府中道灌を推す、贍智(たんち)豪邁にして文武の材ありと。もっぱら兵機の要を委す。長禄二年戊寅〔1458〕、武州江戸に城(きず)いてこれを鎮む。その封疆(ほうきょう)を正し、その走集を険にし、鄰国と戦ふごとに、利は寡をもって衆に勝つにあり。両毛二総〔上野・下野・上総・下総〕の諸城、風を聞きて震慴(しんしょう)し〔ふるえ恐れる〕、降者絶えず、大半上杉氏の有となるは、みなその力なり。すでにして州界寧粛(ねいしゅく)〔安らかで静か〕、百姓悦服(えつぷく)〔満足して服従する〕、道灌ますます徳を脩め、信もって初附を懐く。敵国の諸将みな、「彼はもっぱら徳をなし我はもっぱら暴をなす。これ戦はずしておのづから服すなり」といふに至る。
寛正〔1460~66〕中道灌、京に入る。王人、道灌詠ずるところの国風〔和歌〕を采って、天子に奏御す。すなはち御製歌一章を賜ひ、もってこれを褒揚(ほうよう)す。いまに迄(およ)ぶまで世の伝称するところなり。その大英武にして又(正しくは文)者知るべきなり。寛延三年庚午〔1750〕寺主僧日忠、懸河大夫古屋孝長・四宮成煥と石を丘上に樹てんと図る。余をして厥事(けつじ)を属せしむ。石子曰く、「昔灌公の徳武州人に及ぶ。あに荊人(けいひと)の羊叔子(ようしゅくし)を思ふごときか。
しからずんば、何ぞこの里の人またその恵みを忘るるなくしてその址に丘し、もってこれを後世に胎すに至らん」と。われこれを聞く、「羊叔子死して子なし。襄陽(じょうよう)の百姓、その平生游憩(ゆうけい)のところに廟を建て碑を立て、歳時享祀(きょうし)す。その碑を望む者、涙を堕さざるなし」と。
ただ灌公はこれに異なり、国初のときその五世の孫資宗はじめて茅土(ぼうど)の封〔諸侯を封ずること〕を稟(う)く。食邑(しょくゆう)五万石、これを道顕公となす。顕公よりまたいまに四世、瓜瓞緜々(かてつめんめん)〔子 心孫繁栄のたとえ〕、奕葉昌阜(えきようしょうふ)〔代々栄えること〕、それこれ盛なりとす。方今懸河君大夫、歳時をもって朝東し、すなはち春秋斉粛、群屏摂に事(つか)ふるあり。つひにこの丘に登ってこれを望む。
必ずそのときに当たって褊裨(へんぴ)隊を分かち、戎馬を整勒(せいろく)し、セイ旗繽紛〔旗の多く盛んなさま〕、白羽月のごとく、赤羽日のごとく、壁司徒・鋭司徒おのおのその守りを慎み、猛士発揚、踊躍兵を用ふ。すなはちみな頸を延(ひ)いて企腫(きしょう)し、もって斥候の燧を挙ぐるを待っを観る者あらん。ここにおいてか君大夫、慨然として爾祖(じそ)を念ふことなからんや。つひにその徳を脩め、まさにその四竟を慎み、その守備を完うし、有司を訓ふるに義をもってし、小民に施すに恵をもってす。しかして令名を光昭し、もって子孫に示す。またかく監(み)ることなからんや。しかして後に、里人のその址に丘するを知る。寺主のその丘に碑する、みな由あるか。

