永井尚志などの墓〔本行寺②〕(日暮里・谷中史跡巡り⑬)
本行寺の墓所は本堂の裏側にあります。その墓所には、永井尚志、市河寛斎・米庵親子の墓、加納藩永井家などの有名人のお墓があります。今日は、これら有名人のお墓を紹介していきます。
《永井尚志(なおゆき)の墓》
永井尚志のお墓は、本堂の裏側の最奥にあります。
永井尚志は、三河奥殿藩主松平乗尹(のりただ)の子として生まれましたが、旗本永井尚徳の養子となり、永井家を継ぎました。
老中阿部正弘に抜擢され、長崎海軍伝習所総督、初代外国奉行、初代軍艦奉行を歴任しました。
しかし、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立を画したため、安政6年(1859)井伊大老により軍艦奉行を罷免されました。
3年後の文久2年(1862)、京都東町奉行として復活し、大目付を経て若年寄にまでなりました。徳川慶喜が大政奉還する際に、その奏上文を草案したことでも有名です。
戊辰戦争の際には、箱館戦争に参加し、榎本武揚政権で箱館奉行を勤めていましたが、敗北したため謹慎した後、明治新政府に出仕し、開拓使御用掛・元老院権大書記官などを務めました。明治24年7月、76歳で没しました。
永井尚志の孫娘夏子の孫が有名な三島由紀夫ですので、永井尚志は三島由紀夫の高祖父となります。

《市河寛斎のお墓》
市河家の墓地は、本堂裏側の墓域の中ほどの東側にあります。墓所には、市河寛斎と市河米庵についての東京都教育員会の説明板があります。下写真はは市河寛斎についての説明板です。

市河寛斎は、江戸後期の儒学者であり、漢詩人でもあります。上野に生まれ、江戸に遊学し昌平黌に入り、5年間学員長を務めましたが、寛政異学の禁を批判し、昌平黌を追われました。その後、富山藩校の教授となりました。掛川藩世子の侍講を兼ねる。富山藩に仕えること20年余、63歳で辞任した。漢詩人としても有名で、柏木如亭、菊池五山を教えました。
墓碑の正面には「文安先生市河子静墓銘」と刻まれています。

《市河米庵のお墓》
市河米庵は、市河寛斎の子供です。幼い頃から父の薫育を受け、林述斎や柴野栗山から朱子学を学び、とくに書は、長崎で、清の胡兆新(こちょうしん)から直接に教えを受け、加賀藩に招かれ、書名はますます高くなりました。
晩年には大名、町人、僧侶など5000人もの門下を擁したといわれ、巻菱湖(まきりょうこ)、貫名海屋(ぬきなかいおく)とともに、「幕末の三筆」とうたわれました。父市河寛斎の墓碑を書いたのは市河米庵です。

上野にある上野風月堂は、ゴーフルで有名な老舗ですが、この上野風月堂の暖簾に書かれた「風月堂」の文字を書いたのが市河米庵です。なお、暖簾の風月堂の風という文字はカゼカンムリに百という文字となっています。

《永井尚服(なおこと)のお墓》
本堂のすぐ裏側を右手に曲がり東側奥に向かうと美濃国加納藩永井家の墓所があり、とりわけ大きなお墓が加納藩の最後の藩主永井尚服(なおこと)のお墓です。
加納藩は、現在の岐阜県南部を中心とした地域を納めていた藩です。
岐阜と云えばすぐに岐阜城を思い出します。しかし、関ヶ原の戦いの後、岐阜城はこわされ、岐阜城の城下町は尾張藩が治めていました。
壊された岐阜城の建物は移築され加納城が築かれました。
加納藩の初代藩主は、徳川家康の娘婿の奥平信昌です。徳川家康が美濃国を重要視していたことがわかります。
加納藩主は、奥平家、大久保家、戸田家、安藤家と有力譜代大名が勤め、宝暦6年(1756)永井直陳(なおのぶ)が岩槻藩から移封され、以後、永井家が治め、明治を迎えました。
永井尚服(なおこと)は、福島藩主板倉勝俊の子として生まれ、永井尚典の養子となり永井家6代藩主となりました。寺社奉行兼奏者番に就任した後、慶応3年には若年寄兼会計奉行をつとめました。
なお、永井尚志が養子に入った旗本永井玄蕃頭家は、加納藩主の永井家と同族です。


