吉良富子のお墓〔東北寺②〕(広尾・恵比寿散歩②)
東北寺の中興開基は、上杉定勝の側室生善院です。
そのため、東北寺には、中興開基の上杉定勝の側室生善院とその娘である吉良上野介の正室富子のお墓があります。
そこで、今日は、二人のお墓、さらに佐土原藩島津家のお墓も紹介します。
《上杉定勝正室と吉良富子の墓》
東北寺の本堂の西側の墓域の中に、上杉定勝の側室生善院と吉良富子のお墓があります。下写真の左が生善院、中央が吉良富子のお墓です。
上杉家の江戸の菩提寺は白金の興禅寺ですが、生善院は、自信が中興した東北寺に眠っています。
生善院のお墓には中興開基と刻まれています。(下写真)
吉良富子は、上杉定勝と生善院の間に上杉綱勝の四女として生まれました。
上杉家時代には三姫と呼ばれていました。
そして、万治元年、吉良上野介に嫁ぎました。
吉良家に嫁いだ後、富子と改名しています。
松の廊下の刃傷事件後、吉良家の屋敷が呉服橋から本所へ移された時、富子は吉良上野介と一緒に本所に行くことをせずに芝白金にあった上杉家下屋敷へ移りました。
元禄15年(1702)12月14日の討ち入りで吉良上野介が死去すると、富子は落飾して梅嶺院と号し、その菩提を弔いました。
そして、吉良富子は吉良上野介がなくなった2年後の宝永元年(1704)6月2日には息子の上杉綱憲がなくなり、息子の後を追うようにして、綱憲の死去2ヶ月後の宝永元年8月8日に上杉家下屋敷で死去しました。
墓碑には戒名は梅嶺院殿清巌栄昌尼大姉と刻まれています。(下写真)
《佐土原藩島津家の墓地》
東北寺には、島津忠寛を始めとした佐土原藩島津家の一族のお墓もあります。
佐土原藩島津家のお墓は、本堂の裏側の山腹にあります。
島津忠寛は、日向国佐土原藩の最後の藩主です。
佐土原藩主島津忠徹の次男として江戸三田藩邸に生まれ、父の急逝により12歳で襲封しました。
戊辰戦争では島津忠寛に錦旗節刀が下賜されたそうです。
上野から会津・米沢方面へと転戦し、その戦功で明治2年に賞典禄3万石が給されました。