久留米藩有馬家のお墓〔祥雲寺に眠る有名人②〕
(広尾・恵比寿史跡巡り④)
祥雲寺に眠る大名家で、黒田家に次いで大きな大名は、久留米藩有馬家です。
現在は、祥雲寺の北側の一段と高くなった台地上の西側奥にありますが、戦後まもなくまでは、本堂の西側に、約1千坪もの広さがある大きな墓所でした。
多分、黒田家と並ぶくらいの広さだったのではないでしょうか。
《久留米藩有馬家のお墓》
久留米藩有馬家の藩祖は有馬豊氏で、大坂夏の陣の戦功で久留米藩21万石を与えられました。
有馬家の墓域は、祥雲寺の本堂の西側の広大な地域(約千坪)を占めていましたが、昭和29年の本堂火災の後、歴代のお墓を改葬し墓域を開放しました。その際に、連姫のお墓を残し、これを累代の墓としました。(下写真)
有馬豊氏の正室は、徳川家康の養女(松平康直の娘)連姫です。

久留米藩有馬家の墓地は改葬されていて合葬墓となっているため、個別のお墓はありませんが、久留米藩出身の主な有名人について書いておきます。
☆有馬頼徸(よりゆき)
大名の数学者として有名。数学を山路主住(ぬしずみ)に習い、関孝和、建部賢弘たちの業績をまとめ、しかも自分の工夫も含めて多くの著書を著す。刊行されたのは『拾璣算法(しゅうきさんぽう)』(1769)だけであるが、点竄(てんざん)のよい教科書として大いに歓迎された。巻末に、弧の長さに関する三つの無限級数(円理)の公式を示した。藤田貞資(さだすけ)・嘉言(かげん)父子のほか多くの数学者を家臣にして庇護した。関流が他の流派より評判を高くしたのは有馬頼徸の援助によるところが大きい。久留米に生まれ、久留米で死去。
☆有馬頼寧(よりやす)
旧久留米藩主有馬家の当主、東大卒業後、母校東京帝大の助教授をへて,大正13年衆議院議員、昭和4年貴族院議員となり、昭和12年第1次近衛内閣の農相、昭和15年大政翼賛会事務総長となる。A級戦犯として収容されたが不起訴。戦後は中央競馬会理事長となり,競馬の「有馬記念」は有馬頼寧にちなんだもの。昭和32年1月10日死去。72歳
有馬家墓地内に、有馬頼寧の顕彰碑「頼寧公遺徳碑」が建てられています。(下写真)

☆有馬頼義(よりちか)
小説家。東京の生まれ。頼寧(よりやす)の子。1954年『終身未決囚』で直木賞を受賞。その後『四万人の目撃者』などで、松本清張と並んで戦後の推理小説ブームの一翼を担う。映画「兵隊やくざ」シリーズの原作者としても知られる。昭和55年4月15日死去。62歳。
有馬家の墓地が改葬された経緯を書いた碑が墓所の入口に建てられていますが、これは有馬頼義が建てたものです。(下写真)

《吹上藩有馬家》
久留米藩有馬家は大大名ですが、分家は一つだけです。
それが吹上藩有馬家です。
吹上藩有馬家の墓地も祥雲寺にあります。(下写真)

吹上藩は江戸時代に下野国都賀郡吹上(現在の栃木市吹上)に陣屋を置いた藩で、初代藩主は、8代将軍徳川吉宗の御側御用取次を勤めた有馬氏倫(うじのり)です。
吹上藩有馬家は、久留米藩初代藩主の有馬豊氏の三男である頼次を祖とし、頼次の養子の吉政以来紀州藩に仕えていました。
吹上藩有馬家は、久留米藩初代藩主の有馬豊氏の三男である頼次を祖とし、頼次の養子の吉政以来紀州藩に仕えていました。
有馬氏倫は徳川吉宗が紀州藩主から将軍になった際に、幕臣となり、享保の改革に大きな役割を果たしました。有馬氏倫は切れ者できつい性格であったといいます。
当初陣屋は、上総国五井にありましたが、後に吹上に陣屋を移して吹上藩と呼ばれました。

