大給恒の墓〔祥雲寺に眠る有名人③〕
(広尾・恵比寿史跡巡り⑤)
祥雲寺に眠る有名人ですが、今日は、大給恒について書いていきます。
大給恒は、奥殿藩松平(大給)家8代目で、幕府時代には、松平乗謨(のりかた)と名乗っていて、明治になって大給恒と改名しました。
大給恒は、若い頃から有能で、幕府の要職を歴任し、明治になっても明治新政府で活躍し人物です。
大給恒のお墓は、祥雲寺の墓域の上の台にありますが、菩提寺は、祥雲寺の塔頭であった香林院です。

香林院は、祥雲寺の東側にあり、奥殿(おくどの)藩松平(大給)家の菩提寺として、寛文5年(1665)に建立されました。
開基は旗本松平(大給)真次で、その法名から寺号を香林院としました。
大給松平氏は、松平一門として徳川家康に仕え、松平真次の子供乗次の代に1万石の大名となりました。
香林院の山門脇に大給恒についての渋谷区教育委員会の説明板が設置されています。(下写真)

大給恒(ゆずる)は、幕府時代には、大番頭から若年寄となり、陸軍奉行、老中格陸軍総裁を歴任しました。
文久3年には、信濃国田野口に陣屋を移し、田野口藩(のち龍岡藩に改称)と呼ばれました。
龍岡城(現長野県佐久郡臼田町。国指定史跡)は、大給恒が造った江戸時代の最後の城郭で、函館の五稜郭と同じような星形をした洋式の城です。
大給恒の初名は松平乗謨(のりかた)ですが、明治維新後に姓を祖先の旧領地の名に因んで大給恒と改めました。
明治新政府の要職に就き、明治28年には、賞勲局総裁となり、日本の勲章制度の礎を築くとともに、大給恒が考案した勲章のデザインは現在も使われているそうです。
また、明治10年(1877)に起きた西南戦争の際、佐野常民たちと日本赤十字社の前身である博愛社を創設し、佐野常民とともに初代副総長となり、日本赤十字社の基礎を築きました。明治43年1月6日死去しました。72歳でした。
大給恒の墓は、祥雲寺の墓地にあり、大きな墓碑には「枢密院顧問官 正二位勲一等 伯爵 大給恒墓 明治四十三年一月六日甍」と刻まれています。(下写真)


