曲直瀬玄朔(2代目道三)〔祥雲寺に眠る有名人③〕
(広尾・恵比寿史跡巡り⑥)
祥雲寺に眠る有名人ですが、今日は、曲直瀬玄朔のお墓をご案内します。
曲直瀬玄朔のお墓は、祥雲寺の墓地のほぼ中央にあり、墓地の真ん中を通る道の南側にあります。下写真の右側2番目が曲直瀬玄朔のお墓です。
曲直瀬玄朔は、安土桃山時代から江戸前期に活躍した医者で、名は正紹(まさつぐ)、通称は玄朔のち2代目道三を襲名しました。院号は延命院、延寿院といいました。
曲直瀬玄朔は、初代曲直瀬道三の妹の子として京都に生まれ、幼くして両親を失い曲直瀬道三に養育され、道三の孫娘を娶って、道三の養子となり、曲直瀬家を継ぎました。
天正14年に法眼から法印に進み延命院の号を賜りました。のちに慶長2年に延寿院と改めました。
関白豊臣秀次の診療にも当たりましたが、豊臣秀次切腹に連座して常陸国に流され、佐竹義宣に預けられました。
まもなく、後陽成天皇が病に倒れましたが、他のどの医師の手当も効果がないため、赦免されて帰京し、後陽成天皇の病気の治療にあたり、病気を治癒し、恩賞を賜りました。
幕府が開かれた後は、徳川家康や秀忠に仕え、慶長13年に徳川秀忠の治療のため江戸に招かれ、それ以後は隔年に江戸に下ることとなり、江戸屋敷と麻布に薬園地を与えられました。
江戸で没し、祥雲寺に葬られました。お墓は生前に建てたため、逆修と刻まれています。
曲直瀬玄朔が江戸に与えられた屋敷は、「武州豊島江戸庄図」を見ると、「延寿院、道三」と書かれていて、現在の大手町付近にあることが確認できます。
曲直瀬玄朔が江戸に与えられた屋敷の北側にある堀は、曲直瀬玄朔が2代目道三を名のっていたことから道三堀と呼ばれるようになったといいます。
また、道三堀に架かっていた道三橋の架橋については、曲直瀬玄朔(道三)が、ある時、江戸城から呼ばれてから登城した際に遅れて、御咎めがあった時、「自分は堀をぐるっと廻ってきたので遅れました」と答えたところ、それならば堀に橋を架けよということになって、新たに橋が架けられ道三橋ができたという逸話が残されています。
「武州豊島江戸庄図」を見ると、確かに、曲直瀬玄朔(道三)の屋敷の目の前に、橋が架けられています。