荒井郁之助のお墓〔祥雲寺に眠る有名人⑥〕
(広尾・恵比寿史跡巡り⑨)
祥雲寺に眠る有名人、今日は荒井郁之介について書きます。
荒井郁之介を知っている人は少ないかもしれませんが、幕末・維新にかけて活躍した人物で、幕末は主に海軍畑で活躍し、明治になってからは、開拓使や内務省で活躍した人物です。
荒井郁之介のお墓は、祥雲寺の一段と高くなった墓域にあります。
黒田長政のお墓の東側を通って石段を登った先にあります。(下写真)
荒井郁之介は、江戸に生まれ、昌平黌に学んだ後。幕府の軍艦操練所頭取を勤めた後、海軍を離れ、講武所取締役、歩兵頭を歴任します。
その後、慶応3年(1867)に海軍奉行となり、海軍に戻りました。
江戸城開城後は、新政府軍への恭順を拒否した海軍副総裁の榎本武揚とともに品川沖を脱走しました。
この時、荒井郁之介は、榎本艦隊の指揮官として箱館に向かいました。
箱館占領後の榎本政権では海軍奉行に選出されました。
新政府軍に渡った甲鉄艦を奪取するために計画された宮古湾海戦では、司令官として回天に乗り込み、宮古湾に突入しましたが、この作戦は失敗に終わり、回天艦長の甲賀源吾が戦死するという結果となりました。
明治2年5月15日に五稜郭が開城され箱館戦争に敗れた後は、東京で獄に下りました。
明治5年に許されて開拓使出仕となり、北海道測量などにあたりました。
明治9年に開拓使を辞任したものの、翌年には、内務省地理局に出仕し、測量業務に携わりました。
そして、明治23年中央気象台が独立するとその初代台長となりました。
メートル法を早い時期に取り入れたことでも知られています。
祥雲寺の入口に「荒井君碑」が建てられていますが、気が付く人は少ないのではないでしょうか。
荒井郁之介の篆額は徳川宗家16代の徳川家達が書いたもので、碑文には荒井郁之介の業績が書かれています。大正4年に建てられたものです。