コッホ・北里神社(広尾・恵比寿史跡巡り⑯)
広尾・恵比寿史跡巡りですが、今日は、コッホ・北里神社についてご案内します。
コッホ・北里神社は、外国人が神様としてお祀りされている大変珍しい神社です。
コッホ・北里神社がある場所は、北里大学白金キャンパス・北里研究所病院の構内です。
前回ご案内した光林寺からですと、光林寺の門前にある光林寺交差点と古川を越えた南西方向に北里大学白金キャンパス・北里研究所病院があります。
この北里大学白金キャンパス・北里研究所病院は、元々は、北里柴三郎が福澤諭吉の協力を得て明治26年に開設した日本最初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」があった場所です。
福澤諭吉は、現在の慶応義塾幼稚舎がある土地も含めたこの辺り一帯に、広大な土地を所有していましたが、北里柴三郎のためその一部を提供しました。
「土筆ヶ岡養生園」という名前は福澤諭吉自らが命名した名前です。
「土筆ヶ岡」というのは江戸時代から呼ばれていた地名です。多分、土筆が一杯生えていた土地だったのではないでしょうか。
この北里大学のキャンパス内に、外国人が神様として祀られている大変珍しいコッホ・北里神社があります。
正門から入る道路の右手に鎮座しています。(下写真)
コッホ・北里神社に祀られているロベルト・コッホは、ノーベル賞を受賞したドイツの細菌学者で、北里柴三郎がドイツに留学した際に薫陶を受けた恩師です
このコッホ・北里神社の由来が構内に建てられている説明板に書いてあります。
明治43年5月27日にロベルト・コッホが亡くなったことを知った北里柴三郎は、白金台の国立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の構内にコッホの遺髪を御神体とした総檜作りで銅板葺きの祠を建てました。これが「コッホ祠」です。
大正3年、北里柴三郎は、国立伝染病研究所所長を辞職して北里研究所を新たに創設しますが、その翌年、コッホ祠を北里研究所の構内に遷座し、北里江研究所の守護神として毎年5月27日に例大祭を行なっていました。
そして、昭和6年に、北里柴三郎が亡くなると、門下生らによって、北里柴三郎を祀った北里祠が近くに設けられました。
しかし、昭和20年5月25日の戦災により北里祠は焼失してしまいました。一方、コッホ祠は焼失を免れました。そこで、北里祠はコッホ祠に合祀されました。
それ以降、毎年、6月13日の北里柴三郎の命日には例大祭が行われ、5月27日のコッホの命日には献花が行なわれているそうです。
その後、一旦、北里本館の屋上に遷座した後、平成5年に、現在地に遷座することとなり、それを機会に、コッホ・北里神社と呼ぶことになったようです。
コッホ・北里神社をお参りした後、天現寺橋に戻る途中に狸橋という橋を見つけました。(下写真)
この橋は、昭和8年6月に架設された橋で、江戸時代にはありませんでした。
橋の袂に「狸橋の由来」という碑(下写真)が立ち、「むかし、橋の南西にそば屋があって子どもを背負い手拭をかぶったおかみさんにそばを売ると、そのお金が、翌朝は木の葉になったといいます。麻布七ふしぎの一つで、狸そばと呼んだのが、地名から橋の名になりました。」と書かれています。
狸が人を化かす話が本当ということはないと思いますが、実際に狸蕎麦という蕎麦屋があったようです。
「慶応義塾史跡めぐり」というホームページによれば、
福澤諭吉は、よくこの辺りに散歩に来て、「狸蕎麦」にそばを食べに来ていたことがあり、田園風景が残るこの辺りが気に入り、ここに土地を購入して、別荘を建て、後に広尾別邸と呼ばれるようになったと書いてあります。
赤字がコッホ・北里神社です。青印が狸橋です。