西方寺の高尾太夫の墓(高尾太夫③)(江戸のヒロインたち)
今日は、高尾太夫のお墓のある西方寺を紹介します。
西方寺は、都営地下鉄西巣鴨駅A4番出口から徒歩3分の場所にあります。
白山通りの一本裏側の狭い通りに沿ってあります。
西方寺は浄土宗のお寺で、もともとは、浅草の山谷堀のそばにありましたが、大正15年に、西巣鴨に移転してきました。
西方寺は、山谷にある頃は、「土手の道哲」といわれていました。土手というのは山谷堀の土手のことですが、道哲とは、西方寺を開いた人のことですが、詳しいことはわかっていないようです。
この西方寺に高尾太夫のお墓があります。
ここの高尾太夫のお墓は、現在は読み取るのが難しいのですが、「転誉妙身信女」と刻まれているようです。
西方寺にあるお墓が何代目の高尾の墓かというと、先日、書いた「高尾考」の7代説・11代説によれば、初代高尾太夫ということになります。
ただし、「高尾考」では伝誉妙身信女とされていますが、西方寺の墓碑銘は、「転誉妙身信女」となっていたようです。
高尾太夫のお墓は、西方寺の本堂の北側のある墓域のなかにあります。
本堂の前を横切って、墓域に通じる道を真っ直ぐ進み、墓域の中ほどに下写真の道標があります。
道標にしたがって西側に向かうと墓域のはずれにあります。実際には西方寺さんに尋ねてからお参りしたほうがよいと思います。
高尾太夫のお墓はお地蔵様が浮き彫りされています。
しかし、お地蔵様は、関東大震災の際に火災にあったような状態で、お地蔵様の右側に刻まれていたという「転誉妙身信女 万治三年十二月廿五日」も判読が困難です。
お墓の右側に高い石柱が建てられていて、それには「二代目万治高尾転誉妙身信女二百三十三年供養塔」と刻まれています。これは、明治25年に新吉原の人たちが建立したものだそうです。
これによると「高尾考」の代数とは違うということなりますが、高尾太夫が何人いて、何代目がなんとよばれていたかもハッキリしませんから、「高尾考」と異なっていても仕方がないと思います。
『江戸の下町』(小林高壽著、新人物往来社刊)には、大正15年の改葬時のことの当時の御住職のお話がのっています。
それによると、高尾太夫のお墓を発掘したが、そこからは人骨はでなかったが、道哲像の下を掘ってみたら、そこから土葬用の水甕が2つでてきた、そのうちの一つから女性のお骨が出てきたと書いてあります。
なお、『江戸の下町』(小林高壽著)には、西方寺の開基と言われる道哲は、高尾太夫の恋人であったということも書いてあります。
赤印が西方寺です。