高島秋帆の赦免(高島秋帆③)
長いこと岡部藩に幽閉されていた高島秋帆もようやく解放される時が来ました。嘉永6年8月のことです。
高島秋帆が解放されることになることに大きな影響を与えたのが嘉永5年6月3日のペリー来航です。
ぺリ―来航を受けて、韮山の代官江川太郎左衛門英龍から、嘉永6年8月に、幕府に次のような嘆願書が出されました。
高島四郎太夫義二付御内含申上候書付
先年安部虎之助へ御預け相成りおり候高島四郎太夫義は私砲術師匠にて熟練の者にも御座候間、見越の義を以て申し上げ候は恐れ入り奉り候えども、向後御預替え又は此度重き御法会も御座候折から、万一御赦免に相成り候義に御座候はば、私へ御引渡し下され候よう願い奉り候。御内含迄中上置候。以上
つまり、高島秋帆は、江川太郎左衛門英龍の砲術の師匠で熟練者であるので、預替えあるいはご赦免になるような際には、江川太郎左衛門に引き渡していただきたいとしています。
この嘆願を受けて、老中阿部正弘から8月6日付で、江川太郎左衛門英龍には次のように高島秋帆の赦免と高島秋帆を引き取るようにとの通知が届きます。
高島四郎太夫、出格の訳を以て中追放赦免、安部虎之助へ引渡し取駕籠めおき候儀も差し免じ候間その方へ引取候よう取り計らわるべく候
こうして高島秋帆は、長崎で逮捕されて以来、10年10ヶ月ぶりで赦免されることになりました。
高島秋帆はひとまず本所南割下水の江川太郎左衛門英龍の屋敷に落着くことになります。このときから高島秋帆は、赦免を喜んで、名前を喜平と改めたといわれています。
赦免後間もない8月15日、高島秋帆は、海防掛御用取扱として代官江川太郎左衛門手付に召抱えるという辞令をもらいます。
そして、8月28日には、大砲鋳造方御用掛に任命されます。
赦免されるだけでなく、本来の得意分野で幕臣として活躍できるようになったのです。
高島秋帆が赦免された際に心温まるエピソードが残されているようです。
高島秋帆赦免の通知が届く2日前、江川太郎左衛門の手代雨宮新平が下谷の練塀町にあった蘭方医の大槻俊斎を訪ね、2.3日うちに主人の江川太郎左衛門から依頼があるはずので御在宅願いたいとの旨を伝えました
そして当日、雨宮が大槻俊斎を訪ねると大槻俊斎は留守でした。
急用で朝から家を出たということで、困った雨宮は。やむなく大槻俊斎の弟子とともに、高島秋帆の身柄が引き渡されることとなっている大目付堀伊豆守の役所へ急ぎました。
堀伊豆守の役宅でしばらく二人は待っていると、そこへ旱駕気が着き、大槻俊斎が駕寵を下りてきました。
そして大槻俊斎が言うには、「先日の話で、多分、高島秋帆が赦免されるので、そのことだろうと推測していたので、今朝は早くから岡部藩安部虎之助の屋敷まで出掛けていって、高島秋帆がの容態を見てきたましたが、心配ありません。。ご安心下さい」とことでした。
江川太郎左衛門英龍が高島秋帆を心配していた気持ち、それを感じ取った大槻俊斎のすばやい行動、2人の高島秋帆を思う温かい心がわかるエピソードだと思います。

