お蓮のお墓(江戸のヒロインの墓④)
伝通院に眠る「江戸のヒロインたち」の3人目は、清河八郎の妻お蓮です。
伝通院の本堂西側にある観音堂の前に、有名人のお墓を示す案内板がありますので、それをみてお参りするとよいと思います。また、清河八郎のお墓の前には、表示板も設置されています。(下写真)
清河八郎の妻お蓮は、天天保11年(1839年)、山形県東田川郡熊出村の医師・菅原正庵の四女として生まれ、名前は、高代と言いました。
家が貧しく、10歳のときに養女に出されましたが、17歳の時に養家から遊郭に売られました。
清河八郎は、同門の後輩でもあり同志でもある安積五郎を連れ、故郷の清川に帰郷していました。そして、安積五郎とともに鶴岡の湯田川温泉に遊びに行きました。その時、清河八郎とお蓮が出会いました。
清河八郎と安積五郎二人が遊びにいった時、安積五郎が酔った勢いで「節分の豆まきだ!」といい、宴席でお金をばらまきました。すると、酌をしていた女たちが一斉にお金に飛びつき、奪い合いを始めました。しかし、1人だけ悲しげな眼をして見つめていたのがお蓮でした。
こうしたお蓮に清河八郎は惹かれました。
お蓮の本名は高代ですが、「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らかだ」ということからお蓮と清河八郎が命名しました。
清河八郎がお蓮を妻にするといったため、斎藤家では大騒ぎとなり、両親の正式な許可を得ることなく、清河八郎はお蓮と結婚しました。
安政3年(1856)、修行中の弟・熊三郎と一緒に仙台で新婚生活を送り、翌年に江戸に移り住み、清河八郎は、清河塾を淡路坂、その後、お玉ヶ池に開塾しました。
この頃になると清河八郎は「虎尾の会」結成し、国事に奔走するようになります。
こうした清河八郎は幕府に目をつけられ、幕府は捕縛する機会を狙っていました。
幕府の捕吏は、手先の者に無礼を働かせ、その町人を清河八郎が負傷させたら捕縛しようという計画をたてていたそうです。文久元年(1861)5月20日、その計画が実行され、清河八郎はその手先を斬り殺してしまいました。
これにより清河八郎は幕府から追われる身となったため、すぐに潜伏しました。
一方、お蓮は、清河八郎の知人水野行蔵宅に匿われていましたが、捕吏に捕縛され小伝馬町牢屋敷に投獄されました。
そこでは、厳しい尋問が行われましたが、お蓮は最後まで清河八郎を信じ、耐え抜きました。
しかし、金を持たずして牢にいれられたお蓮への牢内役人たちのいじめもすごいため、お蓮は、清河八郎の知人に金の工面を頼み、その手紙が現在も残ったいるそうです。
こうした金の手配により待遇は多少改善されたものの、牢内の衛生状況は非常に悪く、お蓮は病気にかかってしまいました。さらに悪いことに、文久2年(1862)、麻疹が蔓延し、お蓮も麻疹にかかってしまい、庄内藩邸に身柄が移されました。
閏8月6日、庄内藩に預られたお蓮は、翌朝、藩邸内の牢で亡くなっていました。24歳でした。これは庄内藩が毒殺したものといわれています。
罪を負っていた清河八郎は、幕府に対する赦免運動を行い、浪士組の結成の幕府への上書が受け入れられ、自らも赦免され、浪士組が結成され、京都に向かいました。
しかし、清河八郎の本音は尊王攘夷にあったため、驚いた幕府により、浪士組は江戸に帰され、危険分子とみなされた清河八郎も、麻布一の橋で佐々木只三郎たちにより暗殺されました。
暗殺された清河八郎の頭部の部分は、同志の機転により、山岡鉄舟の元に届き、山岡鉄舟が自宅に埋葬していましたが、慶応3年に伝通院に改葬しました。
その際に、お蓮の墓も同時建立されました。そのお墓が現在も残されています。下写真の右側が清河八郎、左がお蓮のお墓です。
清河八郎のお墓には「清河八郎正明墓」と刻まれ、お蓮の墓には、「貞女阿蓮墓」と刻まれています。(下写真がお蓮の墓です)
「江戸のヒロインたち」のお蓮の説明では、獄中で麻疹にかかり24歳で世を去ったと書かれていて、小伝馬町牢屋敷でなくなったように読めますが、私が調べた限りでは、小伝馬町牢屋敷ではなく庄内藩の獄中でなくなったとされています。
また、清河八郎の本名は、斎藤正明で、出羽国清川村の名門
齊藤家の出身です。