東福門院和子のお墓(江戸のヒロインの墓⑧)
先週、大文字の送り火を見に行った際に、「江戸のヒロインたち」に載っている女性のお墓にもお参りしてきました。
これからは、京都にあるヒロインのお墓を順にご案内します。
最初は、東福門院和子のお墓をご案内します。
東福門院和子は、泉涌寺の月輪陵(つきのわみさぎ)に眠っています。(下写真)

泉涌寺は、東山にある真言宗泉涌寺派のお寺です。
江戸時代には、後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀は泉涌寺で行われ、後水尾天皇から孝明天皇までの陵が境内に設けられています。
こうしたことから、泉涌寺は天皇家の菩提寺といわれていて、「御寺(みてら)」とも呼ばれています。
京都駅からそれほど遠くないバス停「泉涌寺道」から数分歩くと見えてくる総門を入口として、坂道を登っていきますが、広大な境内の最も奥まった所にある霊明殿の東に月輪陵(つきのわみさぎ)があります。下写真が泉涌寺の境内地図ですが、御寺泉涌寺と書かれている辺りが月輪陵です。

ここには、後水尾天皇から仁孝天皇までの天皇のほかに皇妃、皇子・皇女が埋葬されています。
東福門院もここに眠っています。入口に埋葬されている天皇の名前が書かれていますが、その中に後水尾天皇皇后和子と書かれています。(下写真)

東福門院は和子、2代将軍徳川秀忠とお江の間に慶長12年(1607)10月4日に五女として生まれました。
誕生後まもなくから入内が計画されていて、 慶長17年(1612)には、かなりつこんで幕府と朝廷との間で交渉が行なわれました。
しかし、大坂の陣(1615)や徳川家康の死去(1616)、後陽成天皇(1617)の死去があり、延期されていました。そして、いよいよ入内となった時に、後水尾天皇の傍に仕える「およつ津御寮人」が後水尾天皇の皇子を出産したことが発覚し、このことで朝廷と幕府の関係がギクシャクし、また延期となりました。
和子が女御として入内したのは、元和6年(1620)6月18日でした。この時和子は14歳でした。
入内した頃はまだ幼かった和子ですが、父秀忠が上洛し後水尾天皇に拝謁した元和9年6月25日には、懐妊していました。
父秀忠と兄家光が帰府した直後の10月19日に女子を出産しましまた。この子が後に明正天皇となる女一宮(おんないちのみや)です。
その後も、後水尾天皇との間には多くの子供が生まれ、2皇子5皇女を儲けました。しかし、2皇子1皇女は幼くして亡くなり、幕府が期待していた皇子の成長はありませんでした。
和子は、女御として入内しましたが、寛永1年(1624) 11月中宮となりました。
それから5年後の寛永6年11月に、「紫衣事件」など幕府との軋轢のなかで後水尾天皇は東福門院が生んだ女一宮である興子内親王に突然譲位しました。これが明正天皇ですが、この譲位に伴い東福門院という院号を名のるようになります。
明正天皇は実子ですから当然のこととして、明正天皇の後に皇位を継承した後光明天皇、後西天皇についても、養母として皇子の教育にも関わりました。
後水尾天皇との間は、入内当初は、ぎくしゃくした面もあったようですが、その後の二人の間は円満だったようです。
東福門院和子は、延宝6年(1678)6月15日に亡くなりました。72歳の長命でした。
この時、後水尾天皇はまだ存命で、最期は、後水尾法皇、明正上皇たちに看取られて、あの世に旅立っていったそうです。
東福門院和子の化粧料は1万石であったため、財政面で大変恵まれていたため、後水尾天皇や皇子・皇女の生活をささえるばかりでなく、文化面でも大きな役割を果たし、華やかな寛永文化が花開く基ともなったようです。
赤印が泉涌寺です。

