明正天皇のお墓(江戸のヒロインの墓⑨)
今日の江戸のヒロインのお墓は、昨日紹介した東福門院和子の娘である明正天皇のお墓をご紹介します。明正天皇も東福門院和子と同じ泉涌寺の月輪陵(つきのわみさぎ)に眠っています。(下写真)

泉涌寺を紹介する時にはよく使用される風景は大門からの撮った仏殿の光景だと思います。(下写真参照)
この景色の写真はガイドブックなどで見たこともある方も多いと思いますが、月輪陵は、この仏殿の南東後方にあります。

明正天皇は後水尾天皇の第2皇女で、元和9年(1624)11年19日に誕生しました。母は東福門院和子ですので、徳川秀忠の外孫ということになります。
幼い頃は女一姫と呼ばれていましたが、諱は興子といいました。
興子内親王は、寛永6年11月8日後水尾天皇が突然の譲位を宣言したことにより、翌7年9月12日即位しました。明正天皇の即位です。
後水尾天皇の譲位の意向は、ごく少数の天皇の側近を除く公家たちさえ全く知りませんでした。そのため、幕府にとっても突然のことでした。
このような全く異例の譲位が発表されたのは、後水尾天皇が幕府に対して強い不快感を持っていたことによると考えられています。
譲位にいたる最大の理由が、紫衣事件です。紫衣事件とは、後水尾天皇が大徳寺・妙心寺の僧に与えた紫衣着用の勅許を幕府が無効であるとし、これに抗議した大徳寺の沢庵らを処罰した事件です。
その2が、お福(春日局)参内事件です。紫衣事件の解決のため、幕府は、寛永6年(1629)、伊勢神宮参拝に向かったお福(春日局)を上洛させました。これは、徳川秀忠の強い意向があったと言われています。お福は、東福門院和子に伺候した後、武家伝奏の三条西実条(さねえだ)の猶妹という資格で天皇に拝謁しました。この時に「春日」という局号と緋袴を賜りました。しかし、春日局は、無位無官であり、無位無官の春日局の参内に公家達は反発し、後水尾天皇も不快感を示しました。
後に、後水尾天皇が書いた「当時年中行事」の中で
武家の者のむすめ、堂上のものの猶子などになりて御前に参ること、近き頃まではかつてなき事なり。
当時、大奥を取り仕切っていた春日局も形無しで,後水尾天皇にとっては不快感を呼び起こす事件だったようです。
これが主な理由ですが、細川忠興が細川忠利に送った手紙によれば、公家の官位にまで幕府が干渉するようになったことがあげられ、さらに東福門院和子以外の女官が生んだ子供が殺されたり流産させられ、無念に思っていることがあげられています。
確かに、後水尾天皇は子だくさんで、33人の子供が生まれましたが、東福門院和子の入内後水尾天皇の譲位まで間に生まれた子供は、東福門院和子の子供だけ二皇子三皇女5人だけしかいません。このことは譲位後に26人の子供が生まれていることから異常なこと考えられています。
こうした理由から、後水尾天皇は譲位を決意しましたが、当寺、譲位できる皇子・皇女は、和子が生んだ皇女が二人だけでしたので、やむなく、興子内親王が天皇に即位しました。
当時興子内親王は7歳であり、後水尾上皇が院政をしき政治をみていました。
明正天皇は、奈良時代の称徳天皇以来の女性天皇でしたが、東福門院和子に皇子が生まれれば、その子に譲位するという含みで即位しました。
しかし、東福門院和子は、後水尾天皇の譲位後は、皇子を生むことがなかったため、将軍家が期待した将軍家の血筋を引いた男子が天皇に即位するということは実現しませんでした。
東福門院和子に皇子が生まれなかったため、京極局が生んだ紹仁親王(後光明天皇)に譲位されることになります。
譲位は明正天皇が15年在位した後の寛永20年10月3日のことです。
後水尾天皇の近臣であったもと武家伝奏の中院通村(なかのいん みちむら)は、継橋宮と呼ばれた興子内親王について「世を渡る人の上にもかけて見よいかに心のままの継橋」という和歌を詠んでいます。このことから、明正天皇は、幕府の庇護のもと、わがままな女性だったのではないだろうかという説があります。
明正天皇は、後光明天皇に譲位した後、54年間を仙洞御所で暮らして、元禄9年(1696) 11月10日、74歳でなくなりました。
明正天皇の名前は、奈良時代の女性天皇の元明天皇と元正天皇の名前からそれぞれ一字をとったものです。

