三井かねのお墓(江戸のヒロインの墓⑫)
今日は、三井越後屋の創業者三井高利の妻三井かねのお墓を紹介します。
三井かねのお墓は、京都の真如堂にあります。
真如堂は、正式には真正極楽寺という天台宗のお寺です。
今までは観光客にはあまり知られていなかったようですが、最近は秋の紅葉が名所として有名になってきたそうです。
京都駅から京都市バスで約40分の真如堂前バス停から徒歩10分弱で到着します。(下写真は本堂です)
三井かねのお墓は、本堂の南側の墓所の三井家墓所の中央に三井高利のお墓と並んであります。下写真の左が三井高利、左が三井かねのお墓です。
三井高利のお墓「松樹院長誉宗寿居士」、三井かねのお墓には「栄昌院殿長空壽讃大姉」と刻まれています。
三井高利は、14歳の時、江戸に出て、長兄俊次の商売を手伝っていましたが、高利の商才の高さを怖れた俊次により、母親孝養を理由として松坂に帰されてしまいました。
この後、高利は俊次が亡くなる延宝元年(1673)54歳まで松坂で暮らすことになります。
慶安2年(1649)松坂に帰ってきた高利(28歳)が妻として迎えたのがかねでした。
かねは伊勢の豪商中川清右衛門の長女として生まれ、高利と結婚した時は15歳であり。高利との年齢差は13歳でした。
かねが高利を結婚した時には三井家には、しまり屋で有名な三井高利の母珠法がいました。
高利の長男高平が書いた『家伝記』にも、珠法は「千人に勝れて激しき姑」と書かれているそうで、かねも苦労したと思われるが、かねは姑珠法によく仕え、珠法にとってはお気に入りの嫁であったそうです。
がねは高利との間に15人の子どもを産み、そのうち男子8人、女子3人が成長しました.そのため、家計の支出も多く、子供たちの衣類は極めて質素なもので、子供たちが着物をいためても珠法の許しがなければ新調することができませんでしたが、それでも外からみて見苦しくないように取り繕って着せていました。また、かねの実家は当初は繁盛していたため、かねが嫁入りする際には着物をたくさん持参しましたが、それらは娘たち着せてやることが多かったようです。子供たちの着物がこのようでしたので、自分のものは、年に一枚でも新調することは滅多ありませんでした。
越後屋が大きくなると手代や丁稚など奉公人が大勢となりますが、奉公人の世話をよくし、時には奉公人が高利に叱られた場合には、その者に変わって機嫌をとりなすなどしました。
また、手代が夜明け前に旅立つようなときには、その都度起きて丁寧に暇乞いを言って送り出しました。さらに、奉公人の者の親や兄弟まで気にかけ、訪ねてきた奉公人の親族には一人残らず会って接待をしたそうです。
こうしたことから店員たちの感謝の的になっていました。
貞享3年(1686)に高利が本拠を京都に移しても、かねは松坂に留まりました。
しかし、常に高利の様子は気にしていたようで、高利が小刀で怪我をした際には、子供たちが心配しているから、その養生について気をつけるように年老いた夫をたしなめる手紙を書き送っています。
三井高利は、元禄7年(1694)に73歳で亡くなり、かねは、高利が亡くなった2年後に夫のあとを追うように亡くなりました。
真如堂は、現在も三井家の菩提寺として、三井家および三井グループの篤い信仰を得ていて、昭和56年には三井グループによって研修道場「真如山荘」が寄進されたうえに、本堂北側の書院にある「随縁の庭」は、三井家が寄進したお庭です。この庭は、平成22年に造られたものです。
庭の奥にあるのが、三井家の歴代の位牌を安置する仏堂ですが、その仏堂(位牌殿)の蟇股に三井家の家紋が付けられています。
「随縁の庭」は、その四つ目の家紋をモチーフにデザインされています。
下写真は庭手前の部分のアップですが、明確に四つ目になっていることがわかると思います。
赤印が真如堂です。