(江戸のヒロインのお墓⑭)
池玉瀾が眠る金戒光明寺には、お江(崇源院)のお墓、春日局のお墓、阿茶局のお墓など、江戸検お題テキストに取り上げられている女性のお墓があります。そこで、今日は、それらのヒロインのお墓を紹介します。
金戒光明寺の墓地は、境内の東側の山腹に広く広がってあります。
そのため、金戒光明寺でのお墓詣りは石段を上がっていくので結構大変です。前回書いた池玉瀾のお墓も石段を何段も登って先にあります。
下写真は、西雲院近くにある三重塔の前から山門方向を撮ったものです。金戒光明寺の境内の広大さおよび高低差がおわかりになると思います。
今日紹介するヒロインのお墓のうち、お江(崇源院)と春日局のお墓は墓地の入口、阿茶局のお墓は御影堂のすぐそばにありますので、石段を登る必要はありません。
下写真は、金戒光明寺の御影堂です。昭和9年に焼失し昭和19年に再建されたものです。
お江(崇源院)のお墓は、墓地に入ってすぐの左側の石段を上った正面に建っている大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。
このお墓は、寛永5年(1628)に春日局がお江(崇源院)の追善供養のために建てて供養墓で、お江(崇源院)の遺髪が埋葬されているそうです。
お江(崇源院)と春日局は、将軍継嗣問題などで対立することが多かったわけですが、お江(崇源院)の死後の菩提を弔うために建てたものです。
そのお江(崇源院)の供養墓の右手奥には、徳川忠長の供養墓があります。この徳川忠長のお墓を建てたのも春日局です。
徳川忠長は、秀忠とお江(崇源院)の間に生まれ、両親の愛情を一身集め、3代将軍の有力候補でした。
しかし、春日局の徳川家康への直訴により、次期将軍は徳川家光ということになりました。
その後、徳川忠長は駿河50万石を領し、駿河大納言と呼ばれましたが、次第に悪くなってきたため、高崎藩に預けられ、寛永10年に高崎の大信寺で自害しました。お墓も大信寺にあります。
春日局は、徳川忠長がこういったことになったことの責任の一端は、春日局にもあると思い、寛永11年に徳川忠長の供養墓を建立しました。
二人の供養墓を建てた春日局自身のお墓が、お江(崇源院)のお墓の左手前にあります。(下写真)
金戒光明寺には阿茶局のお墓もあります。
御影堂の西側におおきな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が四つありますが、その最も北側の宝篋印塔が阿茶局のお墓です。
阿茶局は、武田氏の家臣飯田直政の娘として生まれ、今川家臣神尾忠重に嫁ぎ、夫の死後、徳川家康に仕えました。阿茶局は、才知に優れ、側室よりも側近といったほうがよい活躍をし、大坂冬の陣では徳川方の和議の使者となました。徳川家康没後でも、東福門院和子の入内の際には、母代わりをつとめ,のち従一位をさずけられ神尾一位,一位の尼とよばれました。
阿茶局は、東福門院和子の母親代わりでしたので、東福門院和子の幸せと天皇家と徳川家の繁栄を祈念して、金戒光明寺に雲光院(のちに清心院)を建立しました。
阿茶局は、寛永14年正月22日に83歳でなくなりました。
「幕府祚胤伝(そいんでん)」には、神尾氏が、雲光院に碑を建てたと書いてあるので、阿茶局の一族が、供養墓として建立したのかもしれません。