寺田屋お登勢のお墓(江戸のヒロインのお墓⑮)
この間、京都にある「江戸のヒロインのお墓」を紹介してきましたが、最後に、寺田屋のお登勢のお墓をご紹介します。
寺田屋お登勢は、伏見にある松林院に眠っています。
松林院は、伏見区役所の真北近くにあり丹波橋駅から徒歩で10分弱で到着します。
門の左手の潜り戸を空けて中に入ります。墓地はあまり広くなく、寺田屋お登勢の墓と書かれて標識もあるので、容易に見つかります。
お登勢は文政12年、近江国大津で旅館を営む大本重兵衛の次女として生まれました。
18歳で京都伏見の船宿寺田屋6代目伊助に嫁ぎましたが、伊助は怠け者で京都木屋町の妾宅に入り浸って寺田屋へは帰らなかったといいます。
寺田屋は江戸初期から続く伏見の老舗の船宿で船頭も多く抱え、船足が速く評判の船宿でした。寺田屋は、現在もその姿を残しています。(下写真)
元治元年、夫伊助は放蕩が祟り35歳の若さで没すると、気難しい姑によく仕え、一男二女を育てながら、お登勢は寺田屋を一人で切り盛りをしていました。
お登勢は人の世話が好きで、人から頼まれれば喜んで引き受け、捨て子を5人育て上げました。
寺田屋は早くから薩摩藩の定宿になっていたため、お登勢の性格から多くの尊王攘夷の志士達を支援しました。その一人が後で述べる坂本龍馬です。
寺田屋と言えば、文久3年、島津久光の命によって差し向けられた鎮撫使により有馬新七たち過激尊王攘夷派の9藩士が殺害された寺田屋事件が有名です。
この時、お登勢は子供達をかまどの裏に隠して一人で帳場を守り、騒動後は血で染まった畳やふすまをすべて取り替え天井の血糊をきれいにふき取らせ翌日には商売を始めたといいます。
下写真は、寺田屋事件の現場となった現在の寺田屋の一室です。1階の入口そばにあります。
また、薩摩藩は騒動で亡くなった有馬新七ら9人を罪人として扱いましたが、お登勢は9人の位牌を作り寺田屋の仏壇で自ら供養しました。
寺田屋事件で亡くなった9人は、伏見の大黒寺に眠っています(下写真)が、その大黒寺は、お登勢のお墓がある松林院の真向かいにあります。
お登勢といえば、坂本龍馬との関係も有名です。
坂本龍馬は、薩摩藩の定宿であった寺田屋を京都の活動拠点としました。
下写真が、坂本龍馬がいつも使っていた部屋です。
坂本龍馬が寺田屋を利用するようになったのは、薩摩藩からお登勢に依頼があったからだと言われています。
坂本龍馬は、龍馬もお登勢を「おかあ」と呼んで親しんでいたうえにお登勢を「学問のある大人物也」と高く評価しています。
そして、禁門の変後、京都の半分は焼け出された楢崎龍の面倒を頼み、お登勢はお龍の面倒を見て、お龍を自分の妹のように可愛がりました。
慶応2年、薩長同盟を締結して間もなく、寺田屋で坂本龍馬が幕府の捕方に襲撃された際に、お龍が素裸で二階にいる坂本龍馬に知らせ、坂本龍馬が怪我を負いながらも逃走できたことも有名な話です。
先日の大河ドラマ「西郷どん」でも描かられていました。
現在の寺田屋にも、お龍(楢崎龍)が入っていた風呂が残されています。
龍馬暗殺後は土佐でしばらく暮らしていたお龍が龍馬の姉乙女との不仲で京都に出てきた時に庇護したとも言われています。
明治10年、お登勢は49歳の若さで亡くなりました。法名は喜道院妙持信女です
赤印が松林院です。青印が大黒寺です。