祖心尼のお墓(江戸のヒロインの墓⑯)
江戸のヒロインのお墓ですが、今日から、東京にあるヒロインのお墓をご紹介していきます。
今日は、祖心尼のお墓をご紹介します。
祖心尼のお墓は、新宿区早稲田にある済松寺(さいしょうじ)にあります。
済松寺は、東京メトロ早稲田駅1番出口から7分の距離にあります。
祖心尼のお墓にお参りするには、事前に予約が必要で、突然お邪魔してもお参りはできませんので、ご注意ください。
済松寺は、3代将軍家光が祖心尼のために1万5千坪の寺領を寄進し建立された寺院ですので、現在でも広い境内を誇っていて、緑が多い静かなお寺です。下写真は本堂です。
祖心尼のお墓は、本堂の手前左手の墓所の中の歴代御住職が眠っている区域にあります。お墓の形式は無縫塔で、墓の手前に「当山開基 祖心尼公」と書かれた表示がされています。
祖心尼は、伊勢国岩手城主牧村利貞の娘として生まれ、「おのう」(済松寺のホームページでは「おなあ」)といいました。
おのうの母親は、稲葉重通の娘でした。稲葉重通は春日局の義理の父ですので、おのうは春日局の義理の姪ということになります。
牧村利貞は、豊臣秀吉の命令により朝鮮出兵に出陣し、朝鮮で亡くなりました。父が亡くなった後、おのうは、前田利家に引き取られ養育されます。
牧村利貞は、千利休のもとで茶を習い、前田利家とは、ともに「利休七哲」に数えられるほどの仲でした。こうしたことも影響したのだろうと思言われます。
成長したおのうは前田家の一族である小松城主前田長種に嫁ぎ、2人の男の子を産みますが、前田家から離縁されてしまいます。
離縁の理由は、姑との仲がよくなかったなどの説がありますが、はっきりはしていないようです。
おのうは、前田家を離縁された後、父親の牧村利貞が建立した京都の妙心寺塔頭「雑華院(ざっけいん)」へ身を寄せます。
そこで、雑華院住職で叔父の一宙禅師から、「禅」について学びます。
やがて、再婚の話が持ち上がり、21歳で会津藩蒲生家の重臣町野幸和と再婚し、二人の女の子を産みます。このうちの一人の娘が産んだ娘が家光の側室お振りの方となります。
しかし、蒲生家が世嗣がなく改易となったため、おのう一家は江戸に戻りました。
江戸に帰ったおのうは、叔母である春日局を頼り、大奥に入ります。
夫町野幸和がなくなった後、おのうは剃髪し祖心尼となりますが、春日局の信頼も厚く、春日局の死後は大奥取締を継いでいます。
また、家光からも厚い信頼をえたうえ、祖心尼の孫娘が家光の側室お振の方となり、家光最初の子供(千代姫)を産んでいるため、大奥で絶大な力を振るいました。
家光は祖心尼に1万5千坪の寺領を寄進し、寺院建立を指示します。
建立された寺は臨済宗の「済」と松平家の「松」の字を取り、済松寺と名づけられました。
家光の死後、祖心尼は大奥を去り、済松寺で暮らしました。
延宝3年(1675年)3月11日に88歳で祖心尼は静かにこの世を去りました。
赤印が済松寺です。