三沢初子のお墓(江戸のヒロインのお墓⑰)
江戸のヒロインのお墓、今日は三沢初子のお墓をご案内します。
三沢初子という人はあまり有名でないので、ご存知の方は少ないと思いますが、歌舞伎の『伽羅先代萩』の政岡のモデルとなった女性です。
三沢初子のお墓は、中目黒の正覚寺にあります。
正覚寺は、中目黒駅から徒歩5分の山手通りに沿ってあります。
正覚寺は、実相山正覚寺といい、日蓮宗のお寺です。
元和5年(1619)に日栄上人によって創建されました。最初は日蓮宗の不受不施派のお寺でしたが、幕府によって不受不施が弾圧された際に、受布施派の身延山久遠寺の系統になりました。
正覚寺は、江戸三大鬼子母神に数えられた伝教大師作と伝えられている鬼子母神像が有名ですが、鬼子母神が祀られている鬼子母神堂は現在修復工事中です。
下写真は11代将軍徳川家斉が江戸城中で深く帰依していたという日蓮聖人木像が安置されている祖師堂です。
三沢初子のお墓は、本堂の東側の墓所内にあります。墓所の中央にありますので、比較的容易に見つけられると思います。
三沢初子は、寛永16年(1639)、鳥取藩士三沢清長の長女として生まれ、13歳のとき母と死別してしまいました。そこで、初子は、叔母の紀伊局に養育されることになりました。
紀伊局は、徳川家康の次女の督姫と池田輝政の間に産まれた振姫の侍女でした。
振姫は、伊達政宗の嫡男忠宗と元和3年に結婚しました。
紀伊局は振姫とともに伊達家の奥向きに入ることとなり、初子も同じように伊達家で振姫に仕えました。
初子は美しいうえに利発であったことから、忠宗の嫡男綱宗の側室に選ばれることになりました。
初子は、明暦3年(1657)には、正室となり、浅岡局と呼ばれるようになりました。
万治元年(1658)、伊達忠宗が亡くなったため、綱宗は3代仙台藩藩主になりました。
そして、翌年の万治2年(1659)、初子は江戸屋敷にて亀千代(後の伊達綱村)を産みました。
しかし、万治3年(1660年)伊達綱宗は、遊蕩が過ぎ、幕府から隠居を命じられました。そして、次期仙台藩藩主となったのが、まだ2歳の亀千代でした。
2歳では、とても藩政を取り仕切ることはできないため、後見役とされたのが伊達兵部宗勝と田村右京太夫宗良でした。この伊達兵部宗勝が藩政を牛耳ろうとしたため、いわゆる伊達騒動が起こります。
この伊達騒動は、家老の原田甲斐が、伊達安芸に斬りつけ殺害するという結末を迎えます。
これにより、幕府は、伊達兵部を土佐藩山内家にお預けとしますが、伊達綱村に対しての御咎めはありませんでした。
騒動中、伊達綱村は毒殺の怖れがあったため、三沢初子を必死になって、綱村を守りました。
騒動が解決した後、綱宗と仲睦まじく暮らし、48歳でなくなり、法名は浄眼院殿了岳日巌大姉と号しました。
この法名は、正覚寺のお墓にも刻まれています。
伊達騒動は、歌舞伎などに取り上げられ、「伽羅千代萩」や「伊達競阿国戯場」が有名です。
この中の女主人公が「乳母の政岡」です。幼君毒殺をおそれ、自ら飯を炊き、毒入りの菓子を我が子千松に食べさせてまで、綱村を守りぬく忠義の女性と描かれています。
この政岡のモデルとなったのが三沢初子です。
正覚寺の鐘楼脇に、3メートル余りもある三沢初子の銅像が建てられています。
この三沢初子の銅像をよく、見ると嫋やかな女性ではなく、ごつい女性の銅像です。
それもそのはず、この銅像は、6代目尾上梅幸の弟子尾上梅朝が演じた先代萩の政岡を元にデザインされたものです。つまり女形が演じた三沢初子の銅像です。