白子屋お熊のお墓(江戸のヒロインの墓⑱)
「浅岡飯炊きの井」のある良源院跡のすぐ近くに常照院があります。常照院も増上寺の子院です。。(下写真は常照院の山門です)
この常照院に白子屋お熊のお墓があります。
山門を入ってすぐ右に白子屋お熊のお墓があります。
下写真の左側が白子屋お熊のお墓、中央が供養碑、右が案内の標柱です。
白子屋お熊は、日本橋新材木町の材木商白子屋庄三郎の娘で、お熊は手代の忠七と密通したうえ、養子の又四郎を追い出そうとし、母のお常が、下女菊に又四郎を襲わせた事件を起しました。
この白子屋お熊(おくま)一件は、大岡越前守忠相の活躍ぶりを描いた「大岡政談」の中で、唯一大岡越前守忠相が裁いた事件として有名です。
白子屋は、江戸日本橋の新材木町にある材木問屋でした。
主人白子屋庄三郎の娘お熊は、下女お久の仲立ちにより、店の手代忠八と密通していました。しかし、白子屋は商売がうまくいっていなかったため持参金目当てで婿養子にもらうこととなり、大伝馬町の地主の手代又四郎を婿にもらい結婚をしました。
結婚後も、お熊は忠八との関係は続き、なんとか又四郎を追い出したいと思っていました。それを知った母親のお常もお熊を叱るどころかお熊の企てに加担する始末で、婿養子又四郎をいびりだそうとして、白子屋の下女のお菊に又四郎を襲わせました。下女お菊に襲われた又四郎は怪我をした程度ですみましたが、このことが表沙汰となり、南町奉行大岡越前守忠相の吟味が行なわれ、享保12年(1827)2月25日に判決が下りました。
その判決では大勢の人が処罰されています。中公新書「大岡越前守」(辻達也著)に引用されている「享保通鑑」巻十一享保12年によると次のような処罰となっています。
まずお熊ですが、お熊(21歳)は市中引廻しの上死罪
密通の相手の手代忠八は市中引廻しの上浅草にて獄門、
母親お常は遠島、父親庄三郎江戸払
下女きく死罪、下女久市中引廻しの上死罪
お熊と獄門としている本もありますが、中公新書「大岡越前守」(辻達也著)に書かれている「享保通鑑」によれば、お熊は死罪となっていますので、死罪が正しいと思います。
また、この事件の15年後の寛保2年(1742)に完成に定められた公事方御定書でも、その48条「密通御仕置之事」で、「密通をした妻は死罪で、相手も死罪」と定められていますので、お熊は獄門ではなく死罪だったと思います。
なお、死罪は、小伝馬町牢屋敷で斬首される刑ですが、獄門と云うのは、小伝馬町牢屋敷で斬首された後、刑場に首をさらす刑で、獄門の方が重い刑罰です。
一方、お熊の相手の手代忠七は、死罪より重罪の獄門となっていますが、当時は、主従関係が非常に厳しい時代でしたので、主人の妻と密通した男は重罪に処すべきという考えがあり、手代忠八は主人の妻のお熊と密通したため、獄門となりました。
本来は、犯罪者の埋葬や墓の建立は許されないケースが多いのですが、白子屋阿熊の場合には、お墓が建てられています。
「享保通鑑」によれば、「くま死骸は、早速首を継ぎ、施主の願いにより、増上寺内念仏堂常照院に、これを葬る」と書かれていて、特別に許可されたものと思われます。
こうして建てられた白子屋阿熊のお墓ですが、常照院のホームページによれば次のような経緯があります。(下写真は常照院の本堂です)
阿熊の遺骨は、昭和9年の墓地改葬に伴い、当院墓地の無縁塔に合祀されました。一方、墓石は残りましたが、太平洋戦争の戦災で焼かれ、破砕がひどく、戒名等も一部しか判読できない状態となりました。
そこで、お熊の260回忌に相当した昭和61年に墓石の一部を復元し、供養碑を建立しました。(常照院ホームページより)
お熊は、斬首される前に市中引廻しとなりました。この時、お熊は、黄八丈を着ていました。そのため、黄八丈は不吉な着物だという評判がたち、黄八丈は一時期大変すたれてしまいました。
しかし、お熊が処刑されてから48年たった安永4年(1775)に「恋娘昔八丈」が上演されると黄八丈の人気が復活したばかりでなく、お熊の評判も高くなりました。
そして、明治6年には、河竹黙阿弥が「梅雨小袖昔八丈」を書き、お熊の人気は一層高くなりました。
赤印が常照院です。