瑤泉院のお墓(江戸のヒロインの墓⑳)
前回ご紹介したお岩さんのお墓のある妙行寺に、瑤泉院のお墓がありますので、ご紹介します。
瑤泉院のお墓は、お岩さんのお墓へ向かう途中にありますので、お岩さんのお墓を目印にするとすぐにわかります。
瑤泉院のお墓は、浅野家の奥方のお墓がある一画にあります。
浅野家の墓所の中央には、浅野内匠頭長矩のおじいさん浅野長直の奥方つまり浅野内匠頭長矩のお祖母さんのお墓があります。お墓には高光院殿と刻まれています。(下写真)
瑤泉院のお墓は、高光院殿の左手にあります。
瑤泉院のお墓は泉岳寺にあります。妙行寺にあるのは供養塔です。
瑤泉院は、松の廊下の刃傷事件により浅野家が断絶となったため、お祖母さんの供養がされなくなると心配したため、永代供養料として30両を妙行寺に納めました。
妙行寺の供養塔はそのことを記念して昭和28年に建立されたものです。
瑤泉院は、延宝2年(1674)、広島藩浅野家の支藩三次藩浅野家の初代藩主浅野長治の二女として生まれました。
誕生した翌年の延宝3年、浅野長矩との縁組願いが提出され、延宝5年阿久利4歳で結納が交わされ婚約が成立しました。
長矩の父浅野長直の妹が生んだ娘が阿久利ですので、二人は従兄妹同志ということになります。
翌延宝6年、5歳の阿久利は赤穂藩浅野家の屋敷へ移りました。
二人が正式の結婚したのは天和3年で、浅野長矩17歳、阿久利10歳でした。
浅野内匠頭長矩と阿久利の間には子供は生まれませんでしたが、二人の仲は非常に良かったようです。
元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介義央に斬りつける刃傷事件を起こし即日切腹した際にも、瑤泉院は取り乱す様子はなかったといいます。
浅野内匠頭長矩の切腹により、赤穂藩浅野家上屋敷から赤坂にある三次藩浅野家の下屋敷に移り、落飾し寿昌院と称しました。
後に、この法名が5代将軍綱吉の母桂昌院と一字同じとなることから、瑤泉院に変えています。
それ以降は、浅野内匠頭長矩の菩提を弔いながら余生を過ごしました、
そうした生活の中で、瑤泉院は、赤穂浪士の遺児たちの赦免に尽力しました。
赤穂浪士が討ち入りした時点で15歳に達していた赤穂浪士の遺児4人は伊豆大島に流されていました。その遺児たちが宝永3年(1705)にご赦免となりましたが、このご赦免に尽力しました。
遺児たちが赦免となった9年後の正徳4年(1714)6月3日なくなりました。41歳でした。