阿茶局のお墓(江戸のヒロインの墓㉑)
阿茶局のお墓については、以前、京都の金戒光明寺にある阿茶局のお墓を紹介しました。
阿茶局のお墓は、東京の深川の雲光院にもあります。
雲光院は、慶長16年(1611)阿茶局により、増上寺の高僧であった潮呑上人を初代住職として創建された浄土宗のお寺です。阿茶局の法名「雲光院」がそのままお寺の名称となっています。(下写真が本堂です。)
最初に創建されたのは、現在の中央区馬喰町付近でしたが、明暦の大火で焼失し、神田岩井町に移転した後、天和2年(1682)現在の深川に移転しました。
雲光院は、東京メトロ清澄白河駅 出口から徒歩8分の場所にあります。
雲光院に向かう途中に、松平定信のお墓があることで有名な霊厳寺や深川江戸資料館があります。
阿茶局のお墓は本堂の右側(方位でいうと北側)の墓所のほぼ中央部の最奥部にあります。
大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)で雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉と刻まれています。(下写真)
阿茶局については、以前も書きましたが、今日は少し詳しく書いておきます。
阿茶局は、武田氏の家臣飯田直政の娘として生まれ、今川家臣神尾忠重に嫁ぎ、夫の死後、寡婦となっていましたが、天正7年(1579)、徳川家康に召し出され家康に仕えました。
阿茶局は戦場にも随行し、小牧長久手の戦いの際にも妊娠していた身で戦場にいて、結果的に流産してしまいました。
阿茶局は、才知に優れ、側室よりも側近といったほうがよく、大坂冬の陣では、淀君の妹で京極高次の妻常高院と交渉し、大坂城に入り和睦の使者となって淀君・秀頼母子の誓書をとっています。
元和2年に徳川家康がなくなった際にも、通常であれば側室も落飾するのですが、徳川家康の命令により髪を下ろしませんでした。
徳川家康が亡くなった後も、徳川秀忠の信頼は厚く、秀忠の娘和子の入内の際には、母代わりをつとめました。
その後、皇女(のちの明正天皇)誕生にも立ち会いました。
そうしたことから、元和9年(1623)、朝廷より、従一位をさずけられました。そのため、神尾一位局とよばれました。
寛永9年、徳川秀忠が亡くなった際に、剃髪し、雲光院と名乗りました。
家康没後、竹橋門内に屋敷を拝領し、そこに住んでいましたが、寛永14年(1637)正月22日に83歳でなくなりました。
そして、当時、日本橋馬喰町にあった雲光院に埋葬されました。
なお、雲光院のホームページには、「(阿茶局は)京都にて逝去されたと伝えられ、晩年の活躍の場であった京都東山金戒光明寺に葬られ(た)」と書いてあります。
多くの本には、深川の雲光院に埋葬されたと書いてありますので、雲光院さんに、事情を伺ったところ、「ホームページの内容は間違っています。京都の金戒光明寺のお墓は供養塔です」という回答でした。
赤印が雲光院です。
青印が霊厳寺です。ピンクが深川江戸資料館です。