上野公園に鎮座する上野大仏
今まで、江戸のヒロインのお墓を紹介してきました。これからも順次紹介していきますが、今日は、息抜きに上野大仏を紹介します。

先週の土曜日、あるグループから依頼されて、上野公園の案内をしてきました。
その際に、上野大仏も案内しましたが、上野大仏は、非常に歴史のある大仏ですが、このブログでは紹介したことはなかったと思います。そこで、今日は、上野大仏についてご紹介します。
上野大仏は、時の鐘近くの昔「大仏山」と呼ばれた岡の上にあった大きな釈迦如来坐像を言います。
現在は、頭部だけが岡の上にレリーフ状に壁に固定されていて、岡の上に登らないと分かりません。

そのため、上野に大仏様がいらっしゃるといことさえ知らない人が多いと思います。
最初の上野大仏は、越後国村上藩主であった堀直寄が、寛永8年(1631)に建立した2メートル80センチ前後の釈迦如来像でした。
堀直寄は、寛永寺が創建される前まで、現在の精養軒のある一帯に江戸屋敷を拝領していました。
当時、上野には、村上藩堀家のほか、津藩藤堂家と津軽藩津軽藩の屋敷もありました。これら三藩の屋敷を幕府は上地して寛永寺の敷地としました。
堀直寄は、寛永寺を創建した天海大僧正と親しく交際していました。そこで、天海大僧正からの依頼があって、元の屋敷地に大仏を建立しました。
堀直寄が造った大仏は、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保4年(1647)に発生した地震により倒壊してしまいました。
その後、木食僧の浄雲というお坊さんが江戸市民からの浄財を集めて、3メートル60センチをこえる青銅製の釈迦如来坐像を建立しました。
その後、元禄11年(1698)輪王寺宮公弁法親王が、大仏像を風雨から覆うための仏殿を建立しました。
大仏殿が完成して約150年後の天保12年(1841)、火事によって大仏・仏殿の両方に被害を受けたため、(「上野公園とその周辺」「江戸史跡事典」によれば首が落ちたとのこと)1年半後の天保14年(1843)に、最初の造立者堀直寄の子孫越後村松藩藩主堀直央(なおなか)が大仏を修復し、幕府が仏殿を再建しました。
さらに、安政2年(1855)に江戸を襲い多くの死者を出した安政江戸地震によって大仏の頭部が倒壊しました。その壊れた大仏は、間もなく堀家によって修復されています。
明治になって、明治6年(1873)上野公園が開設された際に大仏殿が取り壊され(年代については他に明治9年・明治10年の二説あります、)ました。
露座となった大仏の写真が残されています。下記写真を見ると大仏の姿がよくわかります。(なお、下写真は長崎大学附属図書館所蔵のものです)

露座の大仏は、大正12年(1923)の関東大震災では、頭部が落下してしまいました。
これで大仏の頭部は大地震で3回落下し、さらに火事で1回落ちたことになります。
関東大震災で落ちた頭部が修復されないうちに、第二次世界大戦中の金属供出令により大仏の胴体と足の部分が国へ供出されてしました。しかし、頭部は寛永寺が保存していたため、頭部だけは寛永寺に残りました。
寛永寺では、大仏の頭部が落ちてから50回忌にあたる昭和47年に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状にして安置しました。
合計した4回も落下した大仏の頭部ですが、ようやく壁面に安定して設置されたことから、もう落ちる心配はありません。
そこで、「もう落ちない」ということから、上野の大仏は、合格を願う受験生から大変人気がある大仏です。
なお、現在の大仏様のお顔は北を向いて鎮座していますが、江戸時代から関東大震災で落下するまで大仏は、いずれも南に向かって建立されていました。
そのため、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存しています。(下写真)

同じく岡の上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔)と呼ばれています。
これは、昭和42年に上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したものです。
高さ15メートル、内部には中央に薬師如来、右側に日光菩薩、左側に月光菩薩を安置しています。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊でした。
薬師三尊の顔は優しいお顔をしています。

