笠森お仙のお墓(江戸のヒロインの墓㉓)
江戸のヒロインのお墓、今日は、笠森お仙のお墓をご紹介します。
笠森お仙という名前を初めて聞くという人は、江戸検を受検する人では一人もいないと思うほど江戸好きな人には有名な女性です。
笠森お仙は、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘で、明和年間、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」のお藤、浅草の二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」のおよしとともに明和期の三美人に数えられる女性です。
笠森お仙のお墓は、東京都中野区上高田の正見寺にあります。
正見寺は、浄土真宗本願寺派のお寺で、東京メトロ東西線落合駅1番出口から約5分、JR中野駅西口から約10分で到着します。(下写真)

笠森お仙のお墓は、本堂裏手の倉地家の墓所の中に建っています。ただし、笠森お仙のお墓は、現在は公開していないという情報を聞きましたので、お参りは難しいかもしれません。
下の写真は、6年ほど前に、笠森お仙のお墓参りに行った際に撮らさせていただいたものです。その当時は寺務所にお願いすればお参りをさせてくれました。
左側の「深教院妙心大姉」が笠森お仙です。

笠森稲荷は、谷中の天王寺の福泉寺の境内ありました。
その笠森稲荷の前にあった水茶屋の看板娘が、笠森お仙です。
大変な美人であったため、江戸っ子の評判を呼び、鈴木春信の錦絵にも取りあげられ、さらに評判となりました。
どのくらい評判になったかについて、太田南畝が『半日閑話』巻十二の「笠森お仙其外」で次のように書いています。(本来は文語で書かれていますが、ここでは、わかやすいように書き換えています。)
谷中の笠森稲荷にある水茶屋の娘でお仙(18最)が美人だというのでみんな見に行く。水茶屋の名は鎰屋(かぎや)五兵衛と言う。錦絵の一枚絵、あるいは絵草紙、双六、読売等に出ている。手拭いに染められる。飯田町中坂の世継稲荷が開帳した時(お仙の)人形も作って奉納した。明和五年五月に堺町で、中島三甫蔵の台詞で次のように言われた「釆女が原に若紫、笠森稲荷に水茶屋お仙云々と」 これによってますます評判になった。
その秋七月には、森田座で、中村松江のおせんの狂言が大当りとなった。
浅草観音堂の後ろ、銀杏の木の下の楊枝店のお藤もまた評判が高い。あだ名は「いちょう娘」と言い、錦絵、絵草紙、手拭い等にも取り上げられた。読売や歌にも取り上げられた。それで、あちこちの娘の評判が上り、浅草地内大和茶屋の女蔦屋およし、堺屋おそでが錦絵の一枚絵に取り上げられるになった。
童謡に、「なんぼ笠森お仙でもいちょう娘にかないやしよまい(注意書:実は、笠森お仙の方が美しかった)どうりでかぼちゃが唐茄子だ」ということばがはやった。
これを読むと、明和三美人と言いながら、笠森お仙が最も美人だったようです。
そんな美人で大評判だった笠森お仙が、明和7年2月ころ、突然鍵屋から姿を消しました。
このことについても、太田南畝が『半日閑話』巻十二の「とんだ茶釜」で次のように書いています。
明和7年2月頃、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。
笠森稲荷の水茶屋のお仙がどこかにいってしまい、その跡に年取った父親が居るための戯れ言だという。
笠森お仙が突然消えたのは、御家人倉地政之助(甚左衛門)に嫁いだからです。
笠森お仙は桜田御用屋敷に住み、子宝にも恵まれ、文政10年1月29日に亡くなりました。享年77歳でした。
赤印が正見寺です。

