功徳林寺と笠森お仙(江戸のヒロインゆかりの寺社⑤)
笠森お仙がいた水茶屋は、笠森稲荷の前にありました。
その笠森稲荷は、明治になくなってしまい、現在は、功徳林寺になっています。
そこで、今日は、功徳林寺を紹介します。
(なお、この記事は、過去に掲載したものを一部修正して再掲するものです。)
功徳林寺は、日暮里駅北口からは徒歩約6分、南口からは谷中霊園を通りぬけて徒歩約5分の距離にあります。
功徳林寺は浄土宗のお寺です。下写真は初音通りからみた功徳林寺です。

谷中霊園は、明治7年に開設されましたが、墓地だけで法要をできませんでした。特に、谷中には浄土宗のお寺が全くないため、浄土宗の人たちは大変不便な思いをしていたようです。そこで、浄土宗が一致して新寺の建立を願い、日向国佐土原藩の第11代藩主であった伯爵島津忠寛が発起人となり明治18年に許可を得たのち、明治26年に建物が完成しました。それが功徳林寺です。
現在の本堂は、平成23年に完成したものだそうです。(下写真が本堂です)

功徳林寺がある場所は、江戸時代は、天王寺の境内で、塔頭の福泉院があり、そこに笠森稲荷がありました。
笠森稲荷前にあった水茶屋の鍵屋(かぎや) に明和初年(1764~69)頃にお仙という名前の看板娘がいました。
これが、江戸の三美人の一人に数えられた笠森お仙です。

三美人は、浅草観音裏の楊枝店の柳屋お藤、浅草二十軒茶屋の蔦屋(つたや)お芳、そして笠森お仙をいいます。なかでもお仙は人気が高く、初期錦絵の美人画モデルとして一枚絵の錦絵になったほか、歌舞伎にも取り上げられました。
また、手鞠うたに「向こう横丁のお稲荷さんへ、一銭あげて、ざっと拝んでお仙の茶屋に……」とうたわれるほど人気がありました。
明和7年(1770)に御家人の倉地政之助の妻となり突然消えたことも江戸の話題となり、「とんだ茶釜が薬罐に化けた」と騒がれました。「とんだ茶釜」はとんだ美人という意味でお仙をさし、「薬罐」は年取った薬罐頭の店番を意味しています。
福泉院は、明治になって、廃寺となり、笠森稲荷は寛永寺の養寿院に移っています。廃寺となった福泉院の跡地に創建されたのが功徳林寺です。
そのため、功徳林寺には、笠森稲荷堂があります。(下写真)

お仙と笠森稲荷に関係する場所が、谷中に3か所あります。功徳林寺、大円寺、そして養寿院です。
それぞれの関係について、『台東区史』が非常にわかりやすく次のように書いています。
いま、谷中にはお仙に関係する場所がこの(功徳林寺)ほか二か所ある。三崎坂の中程に大圓寺がある。ここには「錦絵開祖鈴木春信璋」がある。また、水井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っている。大圓寺には享和年間に小石川白山から移した瘡守稲荷があり、よく笠森稲荷と混同された。
つぎは上野桜木一丁目の養寿院の笠森稲荷である。この稲荷は明治三年、天王寺中門前町から移したもので、これがお仙の茶屋のあった稲荷である。明治の初めに天王寺は縮小され、子院であり稲荷の別当にあたる福泉院が取り潰しにあったので、笠森稲荷を引き継いだのが養寿院であった。
さきの功徳林寺は明治十六年の創建で、現在の笠森稲荷はその後の勧請であるから、お仙の時代のものとは違う。
功徳林寺には、現在も笠森稲荷堂があり笠森稲荷がお祀りされています。
ここにお祀りされているのは吒枳尼天(だきにてん)です。(下写真参照)
笠森稲荷堂は、平成27年に新しく建てられたそうです。


