日暮里駅から谷中を散歩してきました!!
昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」が開催され、日暮里駅から、谷中霊園や谷中の寺々を散歩してきました。
昨日は、気温は平年より低く、どんよりとした曇り空でしたが、幸いにも最後まで雨に降られずに散歩できました。
ご参加いただいた皆さんありがとうございました。
昨日は、徳川慶喜のお墓、大名時計博物館を中心として次のようなコースを歩いてきました。
日暮里駅 ⇒ 幸田露伴 ⇒ 天王寺墓地(村垣淡路守範正の墓、大橋訥庵・巻子の墓) ⇒ 天王寺 ⇒天王寺五重塔 ⇒ 大原重徳のお墓 ⇒ 徳川慶喜のお墓 ⇒ 瑞輪寺(大久保主水の墓、大岡越前守忠相の墓) ⇒ 延寿寺日荷堂 ⇒ 大名時計博物館 ⇒ 臨江寺(蒲生君平の墓) ⇒ 根津駅
《幸田露伴旧宅》
明治の文豪幸田露伴は、明治24年から2年ほど谷中に住み、毎日天王寺の五重塔を眺めながら名作「五重塔」を執筆しました。現在も旧宅跡には当時からの珊瑚樹(写真の左手の木)が残っています。
《大橋巻子・大橋巻子の墓》
大橋巻子は、江戸検のお題のテキスト「江戸のヒロイン」に載っている女性で、老中安藤信正を襲撃した事件(いわゆる坂下門外の変)の計画立案者の大橋訥庵の奥さんです。下写真で私が指差しているお墓は大橋訥庵のお墓で、その隣に大橋巻子のお墓があります。
《天王寺》
天王寺は、現在は天台宗のお寺ですが、複雑な歴史をもったお寺です。
江戸時代初期まで感応寺という日蓮宗のお寺でしたが、幕府の日蓮宗不受不施派の弾圧の影響により天台宗に改宗されました。また、天保4年には、日蓮宗への復帰が企図された影響で、感応寺から天王寺に改称されました。
《大原重徳の墓》
大原重徳は、文久2年に、江戸に勅使として下向し、幕府に幕政改革の実行を要求しました。これにより、一橋慶喜が将軍後見職となりました。大原重徳のお墓には、明治天皇の命により作られた巨大な勅選碑があります。
《徳川慶喜の墓》
徳川慶喜のお墓は、谷中の名所の一つで、大勢の参拝者が訪れます。徳川慶喜のお墓は神式のお墓です。これは慶喜の意向に従ってものです。徳川慶喜のお墓には、正室徳川美賀子のほか、側室も眠っています。徳川慶喜は十男十一女の子だくさんでしたが、4代目の徳川慶朝さんが昨年亡くなり、徳川慶喜家は断絶してしまったようです。
《大久保主水の墓》
瑞輪寺は日蓮宗のお寺で、神田上水を引いた大久保主水のお墓があります。す。大久保主水は、もとは通称藤五郎といいましたが、神田上水を引いた功績から主水という名前を拝領し、その呼び名も濁りのない「もんと」にするようにと命じられたという逸話があります。大久保家の墓所には、歴代の大久保主水の墓がありますが、最も左にあるのが初代大久保主水の墓です。
《大名時計博物館》
大名時計博物館は、江戸時代の大名時計を展示した博物館です。
もともとは上口 が収集した大名時計を、その子の上口等が大名時計博物館を建設し展示したものです。上口館長さんに親切に大名時計の仕組み等について解説していただきましたが、館内撮影禁止ですので、写真は撮影できませんでした。下写真は大名時計博物館に入ろうとしている参加者の皆さんです。
《蒲生君平の墓》
蒲生君平は、寛政三奇人の一人で、天皇陵の荒廃を嘆いて実際に天皇陵を調査したうえで「山陵史」を書いたことで有名です。「前方後円墳」という名前をつけた人としても知られています。蒲生君平の墓は臨江寺にあり、墓石の四面に藤田幽谷の撰文がぎっしり彫られています。



